[ 前へ / 作品目次へ / 次へ ]

アクア・マーメイド

CHAPTER 11

 フィンカはぼうっと、水槽越しの室内をみていた。
 殺風景な一室だ。部屋には誰もいないし、出口といえば水槽から四メートルは離れた両開きのドアと、窓だけだ。あのドアの向こう側には見張りがいて、そしてどこかに続いている長い廊下がある。それが現在に至るまでにみた、この部屋の情報の全てだ。
 窓からみえるのは夜空だ。つかまえられてから丸一日たってしまった。人間の姿にもどるには、次の満月の晩を待つか、フィンカがうしなってしまった何かをみつけなければいけない。どっちも今の状況では無理だ。
 ――私、このまま死ぬのかしら。
 突然鍵のまわる音がきこえて、フィンカはドアをみつめた。
「ありがとうございます」
「気にしないでくれ。こういうことができるのも君たちのおかげだ」
 人間たちがはいってくる。女の子が一人に、男性が一人、そして男の子が一人。最後にはいってきた人間をみて、フィンカはおどろく。フィンカをつかまえた人間だった。レオンに瓜二つの彼。
 ――どうして?
「本当にありがとうございます。『剥製にされる前に人魚をちゃんとみてみたい』なんて一方的なワガママをききとどけてくださって。わぁ、やっぱりいきている人魚って綺麗なんですね」
「わかっていないな。本物の美というのは、生命がうしなわれた後に芽生えるものだ」
「へ、へぇ、そうなんですかぁ」
 目をそらすこともまばたきもできずに、フィンカはただ彼をみつめる。彼がレオンではないことはわかっている。わかっているけれど、瞳や心が彼の姿をもとめている。手をのばして、ふれることができればいいのに。
「うらまないでください」
 男の子がそういって、男性のみぞおちを殴った。男性はつまった呻き声をもらしてたおれる。はいってきたドアの鍵を彼がしめて、女の子が窓をあけて紐をたらす。男の子がいつの間にか棒を手にしていた。それを彼にわたして、素早くドアまで移動する。
 彼が棒をふりあげる。音と一緒に水槽がゆれた。彼は棒をふりあげては水槽にぶつける。最初はなめらかだった水槽の表面に小さなヒビができる。フィンカは彼の必死な表情に魅せられていた。つりあがった眉、ぎゅっとしめられた口元、爛々とかがやく瞳。
 フィンカにまよっているヒマはなかった。彼がたたきつづけるその内側から、フィンカも渾身の力でたたく。手がどんなにいたくても、やめる気にはなれない。
 ヒビがひろがっていく。ひときわ大きな音がして、それと同時に水の流れがフィンカを押した。床にぶつかることを覚悟してフィンカが目をつぶった時、温もりがフィンカをつつむ。目をひらくと、フィンカは彼の腕の中にいた。こぼれた水で全身ぬれねずみの彼はフィンカをじっとみつめる。しかし表情をゆがめて目をそらした。
 女の子が布でフィンカをつつんで、彼に縛りつける。おそろしいまでの手際のよさだ。
「カナ、私のせいでごめんね」
 フィンカをみつめる女の子の瞳はうるんでいた。フィンカにはその理由がわからない。眼鏡をかけた男の子が何事かを彼にささやいて、彼がうなずいた。男の子がフィンカをみて笑いかける。
「揺れがひどかったら遠慮なくスガイを殴りなよ」
「よし、いくぞ!」
 彼がたちあがる。思わず彼の肩をつかんでしまう。拒否はされなかった。彼のレオンとはちがう温もりがゆっくりとつたわってくる。そっと、肩をつかむ手に力をこめた。




 作戦は、夏魚を波沢の叔父さんから奪還してその後一時的に夏魚を海に逃がして、その後また落ちあってどうにかするという単純なものだった。参謀役はもちろん啓介で、有沙は周囲への警戒と荷物持ち。
 そして俺は夏魚をつれて海にまでいく役で、一番責任重大だ。でも、こんな状態にしたのも俺だったし、波沢に詰め寄られたから嫌とはいえなかった。
 内心は複雑。
 背中にいる夏魚から潮の香がただよってくる。灰色がかってうねった茶髪が俺の頬をこする。全身がぬれねずみで重い。それでもなんとか、窓から垂らされたロープをつたって庭におりる。
 三人でタイミングをあわせて庭から塀へ走る。警報のベルがけたたましく鳴りひびいた。
「お前ら!」
 警備員たちが警棒を振りまわしながら走ってくる。思わず舌打ちをもらして、第二の作戦に変更する。冗談でつくった予備作戦が、まさか使われることになるとはおもわなかった。鉤つきのロープをなげて塀にうまく引っかける。この鉤はずっと昔につかわれていたらしい。倉庫をあさったら出てきた戦利品だ。
 掴みかかってくる警備員たちを波沢がたおしていく。余裕しゃくしゃくの表情だ。イジメにちかい。さすが空手部時期主将なだけはある。警備員の相手は波沢にまかせて、俺は塀をよじのぼる。
「放して!」
 いつもとちがう有沙の声にふりむくと、有沙が警備員に髪をわしづかみにされていた。波沢が卑怯すぎるその警備員の急所に蹴りをいれると、その警備員は痛みに悶絶した。波沢の攻撃もなかなか卑怯だ。波沢の後ろに警備員がちかづいて、警棒をふりあげた。
「あぶない!」
 おそかった。警棒はまともに波沢の頭に入って、波沢はそのままたおれる。有沙が半狂乱で波沢をよぶ。有沙が警備員にねじふせられる。有沙の表情がゆがむのがみえた。
「有沙!」
「私はいいから、夏魚を! まよっている時間があったら、はやく逃げて!!」
 ロープをたぐる。二人分の体重がかかったロープがたてる嫌な音は無視する。ずしり、と何かの重みがロープにのった。警備員だ。わけのわからない言葉をわめきちらしている。
 ロープがギチギチとなる。このままでは絶対にきれてしまう。ヤバい、どうしたら――。
「邪魔するんじゃねぇぞお前らぁっ!!」
 数人が飛び降りる音がした。情けないわめき声の後に、ロープにかかっていた重量がきえた。下をみると、みなれた顔がそこにあった。『谷村謎究明or解決何でもお任せ谷高少年&少女団』の団員たちだ。
「なんでお前ら、」
「アタシたちに何もいわないで団長を取り返しにいっちゃうなんてひどいですよ」
「水臭いっス副団長。俺たちは仲間じゃないっスか」
「ホラぼーっとしているヒマはありませんよ」
「副団長!」
 上から声がしてみあげると、団の中でも一番の力持ちの浦谷がロープをひっぱっていた。身体が引きあげられていく。なんとか塀の上に手を引っかけてよじのぼる。
「ありがとな。たすかったよ」
「礼にはおよびません。はやく行ってください!」
 浦谷が飛び降りて、他の団員たちと一緒に警備員たちを散らしていく。心配で仕方ない。でも、ここで俺が立ち止まったらみんなの努力が無駄になる。だから俺は、冷酷でも目をそむけるしかない。
 背中の荷物ごと、バカみたいにたかくて頑丈な塀をこえる。塀をこえれば、有沙も啓介も団員たちも警備員たちも明かりもなくなって、暗い林道だけが目の前にひろがっていた。ゆっくりと、走りだす。足元で枯れた枝や葉っぱがパキパキと鳴る。
 夏魚が俺にしがみついている。痛くはない。海水の匂いとはちがう香りが鼻をかすめる。それの正体に気づいた時、顔がかあっと熱くなるのを感じた。これは、夏魚自身の香りだ。なんだか、無理に秘密を暴いてしまったような気がした。
 何か言葉をかけようと思うけれど、少しも形にならない。それを二・三回繰り返して、結局あきらめる。きっと、この感情が言葉として輪郭をもつ瞬間があるはずだから、それを待とう。夏魚を抱えなおして、また走る。乾きはじめた服はザラザラとして気持ちわるい。
 潮騒の音が近づいてくる。きつい潮の香が鼻を攻撃する。目標地点まで、後少しだ。足を速める。満月ではない月が、銀色の光を俺たちになげかけている。銀の月光にそめられて、何もかもが白くみえる。
 たどりついたのは、「人魚をみつけた」と俺がわめいた桟橋。有沙が俺に縛りつけた布をほどいて、夏魚をおろす。おろしたら、そのまま海にいれる。透きとおった色の瞳が、俺をじっとみつめている。
「およいで逃げろ。お前、自分が人間の姿にもどる方法はわかるよな?」
 夏魚がうなずく。もし『もどる方法がわからない』とかいわれたら俺一人で対応しなければいけないところだったから、それはありがたかった。
「人間の姿にもどれたら、俺の家にこい。なんでこうなったかの説明はその時にでもきく」
 またうなずく。何かもの言いたげに俺をみつめてくる。
「はやく行け。追っ手がくる」
 夏魚はじっと俺をみる。俺は夏魚の視線を受け止めることができない。よくわからないものがグルグルと渦まいて、なんだか苦しい。夏魚は俺をみているばかりで、全然にげようとしない。
「『行け』っていってるだろ! お前は死にたいのか!?」
 どうして夏魚が今にも泣きそうな顔で俺をみつめてくるのかがわからない。からみつくような視線をどうしても振り払いたくてしょうがなくて、声をはりあげる。夏魚はかなしい瞳で俺をみつめて、そして波の間にきえた。
 ――これでいい。これでいいんだ。
 そう、自分にいいきかせる。これで夏魚は追っ手につかまることはないし、人間の姿にもどることもできる。こうすれば、全部まるくおさまる。有沙と波沢と団員たちだって、そのうちもどってくる。まさか警察に突きだされはしないだろう。
 みんなにとって、こうすることが一番いい。でも、俺は……。
「やっぱり、我慢できねえ!」
 海にとびこむ。冷えた海水が全身をつつむ。目をこらしても、夏魚の姿はどこにもなかった。その途端に息苦しくなった。わすれてた、俺ってカナヅチだった! 腕で水をかいても、身体は少しも上がっていかない。身体のパーツが、自分だけは助かろうとしてバラバラな方向にうごいていく。身体の自由がきかない。
 バカだ、俺って。夏魚の気持ちに全然気づかなかった上に、自分の気持ちにも気づかなかった。だからきっと、俺はこんなところで自分の醜態をさらして死んでいくんだ。救いようのないバカな俺にはお似合いな死に様だ。
 ――夏魚。お前に、つたえたいことなんていっぱいあったのに……。
『ダメよっ!』
 声がきこえた。聞きなれた、夏魚の声。猛烈な勢いで人魚の姿をした夏魚がおよいできて、俺の手をとる。そして海上までひっぱっていく。
「――っ」
 大きく息をすう。やっと俺の制御下にもどってきた腕で桟橋につかまる。空気のありがたさが身にしみた。夏魚が心配そうに俺をみつめている。呼吸がやっと落ちついてきたところで、夏魚を抱き寄せる。夏魚がただでさえまるい目をさらにまるくする。
「やっと気づくなんて、俺は本当にバカだ。でも、もうこの気持ちは無視できねぇんだ」
 夏魚。お前には、つたえたいことも言いたいことも、これから一緒にやっていきたいこともたくさんあるんだ。それはとても小さいことだけど、お前と一緒でないと意味がない。
「俺は、夏魚のことがすきだ」
 この気持ちに名前をつけるなら、『すき』しか似合わない。やっとこの想いは形をもって、俺の胸の中へおちてきた。放さない。それが、俺の望んだものだから。
「どこにも行くな。俺とずっと、一緒にいてほしい。……ダメか?」
 夏魚が首をふる。蒼い目から、月光を反射して涙がこぼれおちる。夏魚が微笑をうかべながら涙をぬぐって、俺をじっとみつめた。今なら、その視線の意味がわかる。
 俺は口元に笑みをきざむ。そして、そっと、夏魚の顔に自分の顔を近づけた。


こうして一つの物語は幕を閉じ、そしてまた、新たな物語がはじまろうとしている。
[ 前へ / 作品目次へ / 次へ ]
Copyright © 2006 Fumina Tanehara. All rights reserved.