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アクア・マーメイド

CHAPTER 09

 満月が、夜空で唯一の光源だということを誇るかのように、かがやいている。闇を呑んで暗い海の中に飛びこむ。離れ離れだった親をみつけて腕の中に飛びこむ子供のように。
 感じるのは、日中であたためられた海水の生ぬるさと、呼吸のできない息苦しさ。けれど次の瞬間、それは冴え冴えとした冷たさ、心地いい呼吸感にかわった。母体の中にいる胎児のように手足をかかえて、そのまましずんでいく。最初はぼやけていた視界が、まばたきではっきりしたものになった。
 瞳にうつるのは、ウロコをきらめかせる魚に、波にゆられる海草。
 ――また、もどってきた。
 足はもう尾ビレにかわっている。珊瑚(さんご)のような薄紅色になったかとおもうと、次は瑠璃色、というように、みる角度によって尾ビレのウロコの色が変化する。
 色とりどりの魚たちが、フィンカによってくる。じゃれるようにすりよるのもいる。さわろうと手をのばすと、最初は少しにげられる。だが、ふれると魚たちはうれしそうにはねる。
 ヒレをうちふるって、海上へむかう。フィンカの生まれ変わりがはいっている団は、フィンカのことをさがしているらしい。彼らがさがしている場所と逆方向にいれば、きっとつかまることはない。
 うごかしてすすむ度に、フィンカのうつくしくながい亜麻の髪がゆらゆらとゆれて、水中のコントラストになる。さっきよってきた魚たちはまだフィンカから離れようとはせず、周りでおよいでいる。母親についてまわる子供のようで、可愛らしい。
 ――もし私のお母様がいきていたら、私はこんな風にしたのかしら。
 母親がいないことをさびしいとおもったことはない。海の王者の父親がどんなに忙しくても、姉たちがいつも自分の面倒をみてくれた。そして、色々な物語をはなしてくれた。色々な歌をうたってくれた。それはとても幸せなことだったけれど、それをすてたのはフィンカの意思だ。
 ――うまれてはじめて海の外にでたとき、『彼』に出逢った。
 彼は船上にいて。フィンカは海上にいて。あれからいくつもの転生をくりかえしてきたけれど、この気持ちをわすれたことは一度たりともない。
 海上にでる。雲が満月の光をさえぎり、辺りは薄闇につつまれていた。
 ――何気なくみあげたら、そこに、彼がいて。
 陸の方を振りかえる。そこに何かがあって、それは――人だった。
 ――かくれなきゃ。
 そうおもうけれど、あまりの不意打ちに身体が硬直してしまっていた。指一つうごかせない。満月をおおいかくしていた雲がながれて、あかるくなる。そうして明るみにでた、その人間の姿。
 今度こそ、フィンカは身動きをわすれた。
 歳は多分、フィンカやフィンカの生まれ変わりと同じくらい。月光に黒い髪、光のうつりこんだ目は黒。その人間が手にもっている物体は、光の筋をフィンカになげかけている。
 彼であるはずがない。そんなはずがない。だって彼は――。

『あいつは死んだ』

 耳によみがえるつめたい声も、なんとか取りもどした記憶も、理性も、それを否定している。ちがう、ちがう、と大声でさけんでいる。
 ――あの人間は、彼よ。
 世界中の誰もがみとめなくても、フィンカの感覚の全てがみとめていた。それだけで充分だった。
 ――――レオン。




「あれ? 夏魚はどこいったんだよ?」
「夏魚ならかえったよ」
 おうありがと、といって走りだしかけて、有沙がいった言葉の意味にきづいた。まて、かえっただと?
「んなわけねーだろ。これからだっていうのに、オイオイ」
「気分がわるいんだって。なんだかあおい顔してたよ」
 おかしい。賞味期限が一ヶ月前のヨーグルトをたべたくせに平気な顔をしていたのは、誰あろうその夏魚だ。一緒にたべた俺と有沙は、しばらくはヨーグルトをみただけでかるい腹痛をおこしたくらいだったのに。その夏魚が、正念場をすっぽかすほどの気分不良で帰宅? 世界の滅亡の前触れか?
「なんかあったのか?」
「さぁ? さっきまで波沢と話してたみたいだから、きいてみたら。ホラ、噂をすれば影」
 有沙がいった通りだった。波沢がこっちにくる。波沢と話したそのすぐ後に気分がわるいって、絶対に波沢の話の内容が関係あるにきまっている。何いったんだよ、アイツ。
「オイ、お前夏魚に何いったんだよ!」
 胸倉をつかんで怒鳴る。波沢の眼鏡の奥の目がまるくなったのは一瞬だけで、すぐにキツい目つきでにらまれた。いつも波沢が噛みついてくるときの目つきと全然ちがう。正直、ビビった。思わずつかみかかった手がゆるむ。その手はご丁寧に弾かれた。
「君には関係ないだろう。そんなにききたいなら墨江くんにきけばいい。きっとこたえてくれるさ」
 ムカついたけど、確かにその通りだ。変に色々想像するよりもきいた方がはやい。他の団員たちには「作戦開始」とだけいって、夏魚の家にはしる。
 何かが海におちる音がしたのは、その途中だった。その音を無視してもよかったのに、何故かそれができなかった。無視も説明もできない何かが俺を突き動かした。
 音がしたのは、今はもう誰もつかっていない桟橋から。俺のきいた音が空耳ではない証拠に、桟橋の端がぬれていた。きっと誰かがここから飛びこんだのだ。にぎったままだった懐中電灯で海の中をてらそうとしたら、接触不良でうまくついてくれない。おまけに、満月がかくれて辺りがよくみえない。
「このバカ懐中電灯! 親子三代で使ってやってるんだから、恩返ししろ!」
 悪態をつきながら懐中電灯をふりまわす。水音がした。とっさに懐中電灯をむける。やっと自分の仕事をはじめた愛すべきオンボロがうつしだしたのは、俺がさがしていた夏魚だった。
 気分わるいくせになんでダイビングしてんだよ。そうはおもったけれど、なんだかほっとした。でも、ほっとできたのはほんの一瞬だった。かくれていた満月が、また姿をあらわす。
 映しだされる、その姿。

『人魚はどんな姿でしたか?』
『茶色と灰色を足したみてぇな髪してたな。……じーさん、そうだったよな?』
『そうじゃったよ、確か。目の色は、蒼じゃ』

 それは、正に俺たちがさがしている人魚そのものだった。灰茶色の髪も、海のような目の色も。でも、顔のつくりは長年みてきた夏魚そのものだ。意味がわからない。
「……夏魚?」
 よびかけると、ぼうっとしていた夏魚は気がついたようにまばたきをした。その目は円形に近いほどまるい。人間というよりも、魚の目だ。指には凶器にもなりそうなほどながい爪があって、よくよくみると指と指の間に水かきがある。目の前にいるのは、明らかに人間じゃない。
 ――まさか。
 本来なら足があるべき箇所をてらしてみた。そこに、普通あるはずの二本の足はない。代わりにあったのは、色がかわる――魚のヒレ。
「夏魚、お前……。お前、人魚だったのか!?」
 『それ』は顔をゆがめた。口をひらいて話したらしいが、何もきこえない。気づいたらしく、ながい爪のついた指で喉をおさえた。見覚えがある。よくしっている。声がでないときの夏魚のクセだ。でてこないのはわかっているはずなのに、口をさらに開閉する。
「俺をだましてたのか?」
 かなしいのかくやしいのか、自分がどう感じているのかがどんどんわからなくなっていく。色々な想いが胸の中でぐちゃぐちゃになってどろどろになる。何でもいえる仲だとおもっていた。信頼していた。だから捕獲計画に参加してくれることになった時、純粋にうれしかった。
 なんで。どうして。何故。
「どうしてだよ!」
 『それ』は蒼い目から涙をこぼしながら、それでも激しく首をふった。
 ……もう何もかもが、わからない。何もかんがえたくなくて、ただ、さけんでいた。


「人魚をみつけたぞ!!」
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