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アクア・マーメイド

CHAPTER 07

 一晩あけても、まだレオンの誓いは私の頭から離れなかった。だってあれは『本当』のことだから。嘘なんかじゃない。レオンはちゃんといってくれた。騎士として剣に誓ってくれた。
 ――でも、昨日言いかけたことって何だったのかな?
「フィンカ様、おはようございます」
「おはよう。レオンは?」
「いえ、まだいらしていません」
「え? めずらしいわね」
 いつもなら、レオンは私が朝食にくる頃にはとっくに席についていて、私がきたら「おはよう」っていってわらってくれる。今まで一度も、私よりおそくきたことなんてない。胸がざわつく。
「私、レオンをよんでくる」
 早足になる。ちゃんとあるいているはずなのに、なんだか空中をあるいているみたい。胸のなかのざわめきが誰かにきこえそうで、ぎゅっと胸をおさえつける。そうしなければ、この不安が現実になりそうな気がした。レオンの部屋のドアがみえた時、必死になってノブにかけよった。ノックもわすれてドアをひらく。
「レオン!」
 私の目はきっとおかしくなったんだ。こわれてるんだ。だって。だって――どうしてレオンがねているベッドのシーツはこんなに紅いの?
「レオン、おきて。一緒に、朝食をたべよう」
 自覚できるほどふるえる声でいっても、返事がない。鼻がいたくなるほどの強烈な臭気に、嫌な震えがとまらない。ベッドへ歩きだすと、全身がギシギシきしんだ。
「おきてよ」
 紅くそまったレオンの手にさわった瞬間、全身が総毛立った。手を離そうとおもうのに、硬直してうごかすことができない。何かに喉がぐっとしめられる。
 温もりのない、レオンの手。
「い、や……」
 これは夢だ。夢だ。嘘だ。本当じゃない。私はまだ、レオンと一緒に星空をみているんだ。レオンは私に誓っている。「ずっと離れない」って。鞘から抜かれた剣が月明かりにひかっているんだ。はやく起きなきゃ。起きたらレオンに「こわい夢をみた」っていって笑わなきゃ。
 夢だ。嘘だ。本当のはずがない。
「……いやあああああぁぁぁぁぁぁぁっ――」
 ブラック・アウト。

 目をあけたら、辺りは闇におちていた。カーテンの隙間から月の光がさしこんでいる。何もかわらない夜に、ほっとした。なんて夢をみていたんだろう。紅が目に焼きついている気がして、何度も瞬きをする。
 あれはただの夢。起こりえるわけがない。
「おきたのか、フィンカ」
 闇からなげかけられた言葉に、全身が緊張する。だるい身体を無理におこす。
「なぜ貴方がここにいるの?」
「それはフィンカ、お前がよくわかっているだろう」
 夢の中の、紅。
「何のことだか、わからないわ」
 靴がカーペットをうつ音がした。近づいてくる。月光に照らしだされたのは、王太子のルネ。
「今日の昼前に、王城に早馬があった。オロテイン領主のレオナール・アロンが何者かに――」
「やめて!」
 あれは夢。本当のことじゃない。何度自分に言いきかせても、身体がふるえるのをとめられない。
「あいつは死んだ」
「ききたくない!」
 耳をふさぐ。だってあれは夢のはずなのに。紅にそまったシーツ、息苦しいほどの臭気、こおるようにつめたい手。みんな、夢の中のできごとのはずなのに。本当のはずがない。
「にげても意味はない。事実をかえることはできない」
「嘘よ。だってレオンはいってくれたわ。『永遠に私の傍にいる』って。誓約にそむく騎士はいないって、私にいったわ。……嘘よ……」
「フィンカ」
 ルネが私をだきしめる。抵抗することができない。身体がふるえて、ルネがそうしていなければ倒れそうだった。レオンとちがう温もりなのに、はねのけることができない。
「私の伴侶になれ。あいつの代わりに、私が永遠にお前の傍にいる」
 ――レオン。
 何があってもずっと一緒にいるって、いってくれたじゃない。それが貴方にできることだって。どうしてあなたは今ここにいないの? 私をだきしめてくれないの?
「うそつき……」
 ――うそつき。レオンの、うそつき。
 言葉と一緒に、涙がこぼれた。いくつもの涙が頬をつたって、おちていく。ルネが私の涙をふいて、そっと私に口づけする。それをただ受けいれる。
 しらない温もりを求めることに、ためらいはなかった。



 しめった物体が、口内でうごめいている。歯の付け根や舌をたっぷりとさぐって、それは出ていった。不足していた空気をもとめて、息をおおきく吸う。手がのびてきて、私の髪に指をからめた。
「綺麗な亜麻色だな」
「陛下にお褒めいただけて光栄です」
 そういうと、彼は苦笑した。
「今までずっと殿下と呼ばれてきたから、陛下といわれるのは変な気分だな」
「あなたは、今夜からラピストリ国の全土を統べるルネ王です」
「そしてお前はフィンカ王妃だ」
 私の髪にからめていた手が首筋をつたっておりてくる。むき出しの胸と胸の間で手がとまった。行為の名残にあつい身体から、ひえた手が熱をうばっていく。
「ここに、あいつはまだいるのか」
 胸にあてられた手をとって、指をからめる。それを頬までもっていく。
「お確かめになったでしょうに、まだお疑いですか? 私はこの身をささげました」
「それもそうだな。うたがってわるかった」
 ふっと口元をゆるめて、彼がわらう。私も微笑をかえす。何度目かになるかわからない口付けをかわして、彼の肩口に顔をうずめる。
「静かですのね」
「当たり前だ。この船には私たちと船長しかいないのだからな」
「そうでしたわね。それにしても、喉が渇きましたわ」
「私もだ。何かのむとしよう」
 ベッドから出て、ガウンをはおる。彼の私をよぶ声に振りかえると、彼がもっていたのはワインだった。
「ラピストリ国で一番上質のワインをつくる村のワインだ」
「まぁ、素敵ですわね」
 ベッドにすわっている彼のもつグラスにワインをそそぐ。ふかい紅の液体が、グラスをみたしていく。グラスをゆらして、彼はそれを一息に飲みほした。
「お前はのまないのか」
「いいえ、遠慮しておきますわ。お酒は苦手ですし、それに、……そのワインの色はまるで血のようで。陛下、もう一杯どうぞ」
 彼のグラスにワインをそそぐ。グラスが空になったらまたそそぐ。
「さすがに最高級のワインだ。何度のんでも飽きがこない」
 そうして数分。両手でささえていたワインのビンが大分かるくなって、彼の目があかくなった。酔いがまわっている。グラスをもつ手がふるえていた。
 彼の目をぬすんで、ビンを取りだす。蒼の液体が、手の中でゆれる。深海(やみ)の魔女がわたしてくれたビンの一つだ。魔女がわたしてくれた時の、なんでもできるような気持ちがよみがえる。ズキリと心が痛んだ。
 使わずにすめばそれでいいと、魔女は言っていた。そうなるだろうとおもっていた。遥か昔の出来事のようだ。あの頃にはもう、もどれない。
 蒼のビンの栓をぬく。一気にビンの中身をあおる。
「陛下、お話があります」
「なんだ? 申してみよ」
 酔いのまわった鳶色の瞳が私をみる。チャンスだ、と誰かが私の頭の中でいった。
「ゆるさない」
 重厚な剣を彼にむかって突きだす。剣が私に肉を切り裂く感触をつたえた。溢れだした血がガウンだけでなく、ベッドも紅にそめていく。よせる血の海を、あとずさって避ける。
「このためだけに、お前は私に抱かれたのか」
「レオンをかんがえない日なんてなかったわ。いつかきっと必ず、犯人をレオンと同じように殺すってきめたの。レオンはそれをのぞまないでしょうけど、私はそれをのぞんだの」
 レオンが誓いをかけてくれた剣で、レオンと私の誓いをこわした者を殺す。そのためになら、どんなことだってしようと決めた。レオンはもういないのだから、レオンが愛してくれた私でいつづける必要はない。
「レオンが殺されたあの日、私とレオンはずっと一緒に行動していたわ。殺す機会なんていくらでもあった。なら、その時に私も一緒に殺せばよかったのよ。でも犯人はそうしなかった。……つまり、レオンを殺すと得をして、私を殺すと得をしない人間が犯人。私のしっている中でそれはあなただけ」
「さすが占いの娘だ。占いは本物だったようだな……」
 彼が苦痛に顔をゆがませる。みていられなくて、その部屋をでる。重ねた唇も身体も、全部仇討ちのためだったけれど、でもそれはまぎれもない真実。嘘でも愛した人だから、無様な姿なんてみたくない。
 空に、金色の満月が光りかがやいていた。


「できればお前がこれをつかわないですむことを、いのらずにはいられないよ」
「この蒼のビンは、何のためにあるの?」
「全てを清算するためだよ。これを口にいれたその瞬間から、だんだん、お前はお前ではなくなる」
「私が、私でなくなる?」
「お前から色々なモノがうしなわれて、海へと還る。最後にお前自身も泡となって海へ還るんだ」


 舳先にむけて、はしる。泡になって消えるのならば、そこで消えたかった。はじめてレオンをみつけたのも、レオンが私をみつけてくれたのも、舳先だったから。
 最初に海へと還ったのは、声だった。全身を裂かれるような痛みに声をあげようとしても、ただ空気がもれる。音のない叫び声をあげながら、ひたすらに走る。
 私が、私でなくなっていく。

 こわい。

 私が、私でなくなる。何もかもなくなってしまう。人魚としてうまれてお父様やお姉様に愛されたこと。人間になりたくて深海の魔女のところへいったこと。レオンに再会したこと。レオンへの恋に気づいたこと。本当の人間になれたこと。レオンが死んでしまったこと。レオンの仇討ちを果たしたこと。
 全てがきえて、海とへ還る。私がいた証を消し去って、無へと帰す。それはなんて残酷な罰。

 後悔なんてしない。

 どうして出ているのかわからない涙が、はしる速さに千切れていく。ながれる涙をぬぐってくれる人は、もういない。どこにも。名前ももう、思い出せないけれど。
 どうしてなのか目的も見失ってしまったけれど、舳先を目指して、ひたすらに走りつづける。それが私の唯一できることだとおもった。

 私はきっと、しあわせだった。

 舳先。そこに、のぼる。潮風に髪がゆれた。誰かがこの髪にふれて「綺麗」といってくれたけれど、誰だったのかわからない。そんな自分が無残で、自嘲の笑いをもらす。
 こわいほどの静かな海。漆黒の夜空の装飾品は、金色の満月と降るような星たち。私をみつめてまばたきをくりかえす。私の最後をみつめてくれるのは、彼らだ。それは少し、うれしい。
 飛び降りる。裸の足の裏にはもう、何もかんじない。感じるのは、全身をうつ空気。
 人間としての最後の記憶は、果てしない祈り。
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