アクア・マーメイド
CHAPTER 06
何がおきたのかも、唇を重ねあわせるこの行為に何の意味があるのかも、わからない。突然のことで身動きもできない。だけど。
――ちがう。
唇越しの温もりは、王子のものではない。
「っ!」
唇がはなれる。ルネが唇をおさえた。血がルネの指を真っ赤にそめる。身体をねじって、ゆるんだ拘束からぬけだす。彼が手をのばしてもとどかないほどの距離をおく。
神官様をたたいてしまった時はショックで力がぬけてしまったのに、今の私はどこからくるのかわからない力でいっぱいだった。王子のところへいけるのならば、きっと私はどんなことだってするだろう。ながれる血をみても、おののく気持ちなんて全くない。
はしる。ルネが何かさけんでいるのがわかったけれど、きいているヒマなんてなかった。いつもは固くとざされている唯一の出口をぬける。果てなくつづくような
螺旋階段をおりる。
桟橋にたどりついた時の船の大きさは豆粒くらいだった。大丈夫、今から全力でおよげば必ず間にあう。少しあとずさって、助走をつけてから海に飛びこむ。
――どうして私は、こんなに王子と離れたくないの?
――――すきだからよ。王子のことが、すきでたまらないからよ。
心がおしえてくれたその答えに目を見開いたのは、一瞬。唇に、笑みがのぼる。
なんてことはなかった。本当に、それだけだった。どうしてこんな簡単なことに私は気づかなかったんだろう。魔法なんて、どこにもなかった。彼は魔法をかけたりなんてしなかった。
『お前がもし、お前のその気持ちの正体をつきとめて――』
やっとの思いで船につく。もう身体に力がはいらない。ニンゲンになる前だったら、きっとこれくらいの距離でつかれたりなんかしなかった。海水をすっておもくなったドレスが、無駄に体力を消耗させる。船にしがみつく力がのこっているか、それすらもないのかわからない。口に容赦なく海水がはいってきて咳きこむ。
「フィンカ!?」
ききなれた声に船を見あげる。王子が舳先から身を乗りだして私をみていた。陽の射す砂の上か太陽そのもののように、あかるい金色の髪。ごつごつした岩みたいな色の、二つの目。
きっと、最初から。最初から私は、王子に恋をしていたんだ。王子をみつけた、あの瞬間から、ずっと。
「どうして君が」
遥かにたかい船上にいる王子にむかって、手をのばす。とどかないのはわかっているけれど、のばさずにはいられなかった。王子を、つかまえたかった。
――あなたとずっと一緒にいたくて、私は。
それが、限界。船にしがみついていた手から力がぬけて、身体が海にしずんでいく。ドレスが錨となって、私をしずめていく。だけど手をのばしつづける。段々とおくなっていく船を海の中からみつめて、目をとじる。人魚だった頃のように、感覚が透明になっていく。
王子をたすけた時のことを、急におもいだした。みつけることができたのは、王子が腰におびていた剣の鞘がひかりかがやいていたからだった。王子をだきしめておよぎつづけながら、これが永遠であることをいのった。王子の温もりを感じながら、初めての恋をした。
――王子。
突然手のひらに温もりを感じた。よくしっている温もりだった。目をひらくと、王子が私の手をつかんで海上へとむかっているところだった。金の髪がゆらりとゆれる。鳶色の目が水面をにらみつける。温もりが、私を導く。
「――っ」
海水からあがって、王子が大きな呼吸をする。人魚でもニンゲンでもない私は、そんな必要はなかった。王子が私をだきしめる。温もりがながれこむ。
「フィンカ」
返事をする声をもたないのが、せつない。
「……フィンカ」
はい、といえたら。
「王子、これをお使いください!」
船上から縄梯子がおちてくる。王子がそれをつかまえて、私にわたす。でも、全身がおもくて、とてものぼれそうにない。首をふると、王子は私をつかまえたまま縄梯子にのぼりはじめた。しぼったタオルみたいに、ドレスから海水がおちる。
「僕がのっていた船が嵐で沈没したのは、四ヶ月前、君が僕のところにやってくる三日前だったよ」
のぼりながら、王子がいう。おもいだすのは、『同じようになりたい』という願い。
「船から海におちて、気づいたら砂浜にいた」
何もかわらない温もり。心がやすらぐ。
「でも、海の中で起こったことはおぼろげにおぼえているんだ。……僕は、人魚にたすけてもらった。その人魚は、砂浜まで僕をつれていってくれた」
縄梯子から甲板にのぼる。王子の髪を、海風がなでていく。
「そして、その人魚はロドルフたちが僕をみつけるまで、手をにぎっていてくれたんだ。こんな風に」
手を、やさしくにぎられる。私と王子をへだてるものはもう、何もない。
「お茶をかぶった君の手をひやすために手にふれた時に、君だってわかった。君が、僕をたすけてくれた人魚だって。君は人間の姿になっていたけれど、でも、僕にはわかった」
あまった方の手で、王子は私の髪をなでる。もう、二度と逢えないとおもったのに。もう、二度とこうして髪をなでてもらえないとおもったのに。そうおもうと涙がこぼれる。
「また、たすけてくれたね。絶望にまみれる僕を、君はたすけてくれた。ありがとう」
涙を一生懸命ふきながら首をふる。ありがとうっていわなくちゃいけないのは、私のほうだ。たすけたのは私だって、わかってくれた。私ののばした手を、とってくれた。恋を、私にくれた。
「すきだよ」
唇と唇がふれる。目をつぶる。ルネとの時にはなかった、心をあたたかく満たすものがあった。頭のどこかで、何かがはじけるような音をきいた。
「レオン」
もしはなせるようになったら、まず最初にいうのは王子の名前――『レオン』だときめていた。はじめてきく私の声に、王子が目をみはる。でもそれはすぐに微笑みにかわった。
「すき。だいすき。ずっと、一緒にいたい」
「僕もだよ」
もう一度かさなった唇は、ずっと一緒にいるということの証。
果てがない、群青色の空。右半分の、青白い月。かがやき、またたく星はまるで宝石みたい。無数の宝石がきらめいて、夜空を華麗にかざりたてる。星空をネックレスにできたら、きっと、世界一綺麗でかがやくネックレスができる。あったらつけてみたい気がするけれど、ひとりじめしたくないからやっぱりいらない。
「うわぁ」
星空に心をうばわれて、うっとりと見とれてしまう。あんまりにも素敵で、言葉にしたらそれが全部嘘になってしまいそうな気がした。
人魚の邦からじゃ、絶対にみることができない。
レオンが寝ころがったから、私も真似して寝ころがる。星空が私の視界を支配する。草のちくちくする感じとか、あおい匂いがすごく新鮮で、すごくたのしい。レオンがそっと私の手をにぎる。
「ここは、僕の一番すきな場所なんだ」
――いいなぁ。こういうとっても素敵な場所を、一番すきな場所にできるのはいいなぁ。
レオンがうらやましくてたまらなかった。私もいつか、そんな場所をみつけたい。
「星に手がとどいて掴むことができるって、昔はおもってたんだ」
手をのばして、ぎゅ、とにぎる。ひらいても、何もない。こんなにちかくみえるのに、本当はきっと想像もできないほど星はとおい。なんだか不思議だった。今にも星がふってきそうなのに。
『美しきフェローニア 光あびし夢のいろよ
君がいつかのぞみし あふるる笑みに
遠きどこかの 心はゆれて
そしていつしか 君は光とならん』
「人魚の歌?」
「そうよ。フェローニアの女の子たちは、みんなこの歌をうたうの。私もよくお姉様たちとうたったわ」
姉妹の中で一番歌が上手なのは、一番上のエミリーお姉様だった。お姉様みたいな透明な声になりたくて、ずっとうたいつづけてしばらく話せなくなってしまったことも、今はいい思い出。そういえば、四番目の姉のヘレンお姉様みたいにツヤツヤした黒髪になりたくて、髪を一生懸命によごしたこともある。
「お父様やお姉様たちは、お元気でいらっしゃるかしら」
フェローニアを平和に治めるお父様。華やかな美貌をもつお姉様たち。二度と還れない喪失感が心にぽっかりと穴をあけている。
「ごめん」
「何が?」
「君にかなしいことを思いださせて、ごめん」
「そんなこと、気にしないで。私はそんなこと覚悟の上で
人間の邦にきたんだから」
レオンがおきあがった。どうかしたのかなってみていたら、私の手の甲にキスをした。
「誓約します。騎士、レオナールは永遠に貴女の傍にいる、と」
おきあがってレオンにだきついたら、勢いがよすぎてレオンはたおれてしまった。レオンの頬に、水滴がおちる。あわててふこうとしたら、その手をレオンがにぎった。
「これが僕にできることだよ。ずっと一緒にいる」
「本当? 離れたりしない? 何があっても?」
「本当だよ。誓約にそむく騎士なんていない」
それが本当だと、わかった。どこにも嘘なんてないのだと、しんじることができた。
「……ありがとう」
レオンの誓った『永遠』が、ひどく愛しかった。
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