アクア・マーメイド
CHAPTER 03
父と激しい口論をした。最初は、それがきっかけだった。きびしく禁じられていた外へでたのは、父へのあてつけのつもりだった。私はあなたの思い通りになんかならないと、父にみせつけてやりたかった。最初は本当に、それだけだったのだ。
外へでておどろいた。何か茶色い物でつくられた大きな物が海にういていたから。なんだろうとおもったけれど、どうも、これが話にきく、『船』というものらしい。ニンゲンがのって、これで海をわたるのだという。ニンゲンは無力だから、代わりに知恵をつくす。
ニンゲンが、いる。そうおもうとドキドキした。前々から興味があった。時折、しずんでしまった船のなかからニンゲンの道具がでてくる。それは不思議で面白くて、それをながめては私はよく想像する。ニンゲンって、どんな生き物なんだろう、と。
ニンゲンはどこにいるんだろうとキョロキョロした私は、みつけた。
陽の射す砂の上か太陽そのもののように、あかるい金色の髪。ごつごつした岩みたいな色の、二つの目。月の光で、髪がきらきらして、ニンゲンの彼は舳先からかるく身をのりだしている。
何かが全身を駆けぬけた。呼吸も罪悪感も全てをわすれて、私はそのニンゲンをみつめつづける。『ニンゲンにみつかってはいけない』。おさないころからのその教えさえもわすれて、じっとをみつめつづける。
光が夜空を切り裂いた。同時に、はげしい音。水が私の顔をたたく。彼がおどろいた顔で後ろにふりかえった。
「嵐だ!」
ニンゲンの声がきこえる。全身がしめつけられた。お父様が、私がいないことに気づいてお怒りになっている。私をさがしている。お父様が怒ると、海の天候は荒れて、嵐になる。
――もどらなくちゃ。
そうおもうのに、どうしても私はそこをうごけなかった。空がいくつもの光に裂かれて、その度にこわいほど大きな音が私の身体をうちすえる。
――もどるのよ。はやく。はやくはやくはやく。
光と轟音が同時だった。辺りが昼のようにあかるくてらされて、私は手で目をおおった。次に私がみたのは、あかるくおどるあかいものにつつまれていく船だった。船をつつむものがなんなのかはわからない。けれど、全身が粟立つ。
あれは、よくないものだと何かが私につげる。船がかたむいていく。ニンゲンたちが海にとびこんでいく。小型の船にニンゲンたちが乗りこむ。
――彼は? 彼はどこにいるの!?
「オウジー! どこにいるのですか!?」
ニンゲンたちが口々にさけんでいる『オウジ』というのが彼の名前だということが、何故か理解できた。彼は、小型の船にのっていない。おおきい方の船は、もう半分以上がしずんでしまっている。彼はおおきい船にものっていない。まだ彼は海にいるのだ。
海にもぐる。海の中に、いくつもの船の残骸がある。その中の幾つかが私にぶつかって、肌を切る。痛みを感じているヒマなんてない。はやくみつけないといけない。海の中で、ニンゲンは無力だ。すぐに死んで、魚たちのエサになってしまう。
かがやくものがあった。彼の腰についている棒だった。海から顔をだして彼のいる場所をみると、彼は船の残骸の一つにつかまって、波にゆられていた。ほっと安心したのもつかの間。彼は力尽きたように海の中へしずんでいく。
『ニンゲンをたすけてはいけない』。一瞬、掟の一つが頭をよぎった。けれど、そんなものは私をひきとめられなかった。また海にもぐって、水底へむかおうとしている彼の身体をひっぱりあげる。海面にでた瞬間、彼がおおきく呼吸をしてそのまま気をうしなった。
船の姿はもう、海上にはなかった。ニンゲンたちの声はきこえなくて、小型の船ももう見あたらなかった。嵐はまだ激しさをたもっていて、波がおおきくうねる。お父様は相当お怒りだろう。私が海の外にでた上に、ニンゲンをたすけたとしったら、どうなさるのだろう。私を追放するのだろうか。
それでもかまわない、とおもえた。だきしめた彼から、あたたかい体温がながれこんでくる。私のつめたい身体が、だんだんあたたかくなる。こんな温もり、しらなかった。はじめてだった。
嵐が穏やかになっていく。遥かとおくにみえた地上が、段々近づいていく。砂の上に彼を横たえさせた時には、夜空の端がしろくなっていた。世界が明度をましていく。一晩中およぎつづけたせいでつかれていたけれど、苦にならなかった。彼がゆっくりと呼吸をくりかえす。
もうすぐ朝になる。朝になればきっと誰かがきて彼をみつけてくれるだろう。それまでずっと、彼の傍にいる。彼の手と、私の手をかさねる。私よりも一回り大きな手のひらと、やわらかな温もりに安堵する。彼の手をにぎりしめる。この手をはなしたくないとおもった。いつかは放すことになるのだと、わかっていても。
お父様はいつも『ニンゲンとはみにくいものだ』といっていた。嘘をつかないお父様がついた、唯一の嘘だ。昇りはじめた太陽がてらしているから、海水でぬれた髪がさらにひかっている。
――何歳だろう。どんな言葉で話すのかしら。何をたべて、何をうたって、何をおもうんだろう。
かんがえれば果てがない。それは、彼と私の違いの動かぬ証拠でもあった。私と彼は、すむ世界がちがう。共有できないものなんていくつでもあるけれど、世界を共有できないのは致命的だった。胸がいたむ。
「オウジー! いらっしゃいますかー!!」
誰かの声がきこえる。彼をさがす声。近づいてくる。このままではみつかってしまう。でもどうしても離れがたくて、彼の手をにぎりしめる。あたたかい彼の手に、つめたい私の手。爪がのびて水かきのある私の手。彼の手とは大違い。同じようになれたら、いいのに。
「どこですかー?」
もう、声がこんなにちかい。手を放して、彼の胸にのせる。胸がいたい。はなれたくない気持ちをなんとか抑えて、岩陰にかくれる。岩陰から彼のいる方をのぞくと、そこへ老人があらわれた。顔がひどくしわくちゃで、髪の毛は全部真っ白で口ひげがある。どことなく、お父様ににていた。
「オウジ!」
老人が彼をゆする。彼が目をあけた。何度もまばたきをする。そこに、もう一人のニンゲンがやってきた。彼と同じくらいの年齢だ。わかい方のニンゲンが、彼に肩をかして立ちあがらせる。
彼が、いってしまう。身体が、心が、悲鳴をあげる。だけど私は、かくれているしかできない。彼がいってしまうのを見送るしか、できない。遠くなる。小さくなる。手のとどかない場所へ、いってしまう。
――彼と同じに、なりたい。彼と同じ場所にいたい。
心の底から、それをのぞんだ。私はそれをかなえる方法を、しっていた。思い当たりがあった。
「ダメだよ。いくら相手がお前だからといって、渡すわけにはいかない」
彼女はそう言いきった。光をうしなった目が、私をつめたくみつめている。断られることは最初からわかっていた。でも、あきらめることはどうしてもできない。
「お願いよ。私はどうしても彼にもう一度逢いたいの。そのためになら、何をうしなってもかまわないわ」
深海の魔女はそれでもうなずいてはくれない。私をかなしそうにみつめるばかりだ。
「たまに、いるんだよ。
海神からあたえられたこの至福の地をすてて、汚辱にまみれた地上をのぞむ若者がね。うまれた時に海神からあたえられた運命をすてて、いきようとする輩だ」
「地上へいくことが、私が海神からあたえられた運命だわ」
「お前はわかい。わかすぎるんだよ。若さは諸刃の剣だ。愚かなまでに、自分を支配したいとのぞんでいる。どうあがいても、決して手にいれられないのは自分自身だということがわかっていないんだ」
彼女のいっていることがよくわからない。自分は、自分のものだ。他の誰のものでもない。
「ならば、おしえてよ。どうしてこの胸はこんなにいたいの? 彼はきっと私に魔法をかけたのだわ」
彼の手をにぎりしめて体温をわけてもらった、あの時。きっと彼は私に魔法をかけたのだ。この胸の痛みが、魔法の証。だからもう一度彼に逢えば、きっとこの魔法はとける。
「彼のことを想うと、心がふるえるの。わからないの。しりたいの私は、どうしても!」
彼女がかなしそうに微笑する。誰もさわっていないのに、薬品がたくさんはいっている戸棚の戸がひらいて、中からビンが二つでてきた。それが彼女の手の中におさめられる。ビンの中の液体は、紅サンゴのような紅と、海を凝縮したような蒼だった。
「一度しかいわないから、よくお聞き」
彼女は私に、紅の液体がはいったビンを差しだした。
「これを飲むと、お前は人魚でも人間でもなくなる。ヒレが脚になるし手の水かきがきえるけれど、水の中でも呼吸をしなくても平気だ。だけどね、代わりにお前の喉はその機能をうしなうよ。わかるね? はなせなくなるということだ。もちろんうたうことも。これ位は覚悟の上だろう?」
「えぇ、もちろんよ」
「お前がもし、お前のその気持ちの正体をつきとめて、また彼もおなじ気持ちになってくれたなら、お前は本当の人間になる。もちろん、はなせる。人間のやり方で子供もつくれるし、寿命も人間と同じになる。そして二度と海に還ることなく、地上でくらすがいい」
「地上で……彼と一緒に?」
そうだよ、と深海の魔女はうなずいた。紅の液体が入ったビンを渡された。これを飲めば私は、ニンゲンになれる。彼と同じになれる。彼と同じ場所にいられる。
「そして、もう一つのこれは大事に扱いなさい」
目の前にだされた、蒼のビン。魔女は、私の手のひらにそれをにぎらせた。
「できればお前がこれをつかわないですむことを、いのらずにはいられないよ」
彼とわかれた砂浜へむかっておよぐ。月がかがやいている。ニンゲンになれる。夢ではない証拠に、手の中の二つのビンはきえたりなどしなかった。心がはやるのがわかる。
――さよなら。
別れの言葉は、いえなかった。お父様にも、お姉様たちにも、友だちにも。お父様はきっと悲しまれるのだろう。私は、私がうまれてすぐになくなったお母様にとてもよく似ているといわれて育った。お父様は、お母様の分も私を愛してくれた。お姉様たちも、お母様のように私をやさしくつつんでくれた。
大すきで大切で愛しいのは本当だけれど、後悔なんて、しない。大丈夫。私はきっと、この魔法をとくから。この痛みの正体を、しるから。大丈夫。
砂浜にあがる。紅のビンの栓をぬく。一気にビンの中身をあおる。
――さよなら。
人魚としての最後の記憶は、満天の星と、夜空に君臨する月だった。
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