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 雨はまだふっている。さわさわ、注意してきかないとわからないくらい静かにうたいながら私をよんでいる、気がする。おいで、はやくおいで、おいていっちゃうよ、だからほら、はやく、と微笑みながらささやきながらうたいながら私を手招いている。まって、今いくからおいていかないで、わかっているから、まって、心の中で返事をする。
 雨の日は私にとっては特別な日で、そしてとてもかなしい日だ。校庭に色とりどりの傘の花がさいていく。やすむことをしらない雨が窓をやわらかくたたく。雨のやさしいなつかしい香りがする。
 ねぇ、今いくよ、だからまっていてね、お願い、心の中でつぶやいた。

 雨の音がする。水の音に似ているけれどちがう、雨独特の音がする。雨の歌がきこえる。小さいけれど、きれいでよくひびく雨の声は耳にやさしい。
 ぬれてかえるとき、私はいつも以上にゆっくりあるく。髪が雨をすって、雫がぽたぽたたれる。スカートに雨の模様ができる。冷酷な一面をもつ雨は私の体温を容赦遠慮なくうばっていく。朝はいてきたのはローファーの革靴だったけれど、学校で雨の日専用の靴にはきかえた。雨の日専用の靴は黒い。理由は特にないけれど、強いていうなら、買ったときにとても安かったからだ。
 雨はいつだって心地がいい。私のことを拒んだり認めてくれなかったりなんて絶対にしない。私のことを受けいれて認めてくれて、すっぽりつつんでくれる。そしてやさしいのだ、泣いてしまいそうなほどに。雨は神様の涙なのだと誰かが教えてくれたとき、うれしかった。本当にその通りだって、心の底からおもえてしかたなかったから。
 ねぇ、どうしてそんなにやさしいの、私のことを解ってくれるの、私とってもうれしいの、だからいつも泣いてしまうのよ。そんなことを雨にかたりかける。そのときの雨は、ことさらにやさしい。
「――傘、わすれたのか?」「えっ?」
 突然声をかけられて、本当におどろいた。さっきまでかんがえていたこと全てが頭からすっぽぬけてしまうほどおどろいた。声は私の前方右斜めからで、私の高校の制服をきている男の人がそこにいた。顔はどこかでみた気がするけれど、名前がでてこない。
 私はいつもそうだ。たとえば誰かが私に告白してきたとしても、次の日になったら顔も名前もおぼえていない。ヘタすると告白してきたことさえもわすれているかもしれない。人間としてまずい。
「神奈木史乃、だよな? うちのクラスの」
 私のおどろきぶりに相手もびっくりしたらしく、どこか不安そうに氏名をたしかめられる。たしかに私は神奈木史乃だ。だけど同じクラスかどうかはおもいだせない。どう返事をしたらいいのかにこまってしまって、じっと、バカみたいに目の前の顔をみつめる。

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