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アクア・マーメイド

PROLOGUE

最初は痛み、だった。
 あまりの速さに雫はくだけて、飛沫となる。それはまるで、名画からぬけでたかのような美しさ。しかしそれを見やることもなく彼女は走っていた。ただひたすらに無心に、一生懸命。
 胸がひどくつまって、くるしくて、せつなくて、かなしくてつらくて、大声をあげてさけびたいとねがうも、彼女の喉は少しも音を造りだしてはくれなかった。かすかに息がもれるだけだ。
 上気してほんのりと薄紅にそまった頬は、今は彼女の目からとめどなくこぼれる雫でしめっている。だがそれもかるく、だった。それほどの速さで彼女は走っている。それでも、足にからみつくガウンのせいで速さがおちる。大きくはだけてしまっているガウンから彼女の白い肢体がのぞく。
 身体の横を風がかよっていく。陸上にいるからこそのいつもならたのしいその音は、今はただわずらわしい。目の前から消しさりたいものの一つでしかない。

 こわい。

 くるしい。身体の中で嵐がうまれて、全身を喰らいつくしていく。全てがうしなわれていく。はやく走るからくるものとは、全くちがうその苦しみ。罰。絶対の禁忌をおかしてしまった自分への、破滅の罰。

 後悔なんてしない。

 思考がまとまらない。終焉がわかるのは、自分が人間ではないからなのだろうか。それとも……?
 舳先。終わりの、その場所。そして、始まりの場所。……彼を最初にみた、ここ。陽にきらめく、金の絹糸、そして鳶色の瞳をもつ、彼は――。

 私はきっと、しあわせだった。

 まようことなく、舳先にのぼる。蒼から黒へと姿をかえた夜の海。生まれそだち、そしてすてた故郷。聴覚に異常をきたしそうなほどしずかな海が貪欲に、彼女を呑みこむ用意をしている。
 彼女はゆるく、ほほえんだ。人間だとはおもえないそのうつくしい容貌がいっそうひきたつ。ほほえみながら、彼女は何かに手まねきされたように海に飛びこむ。亜麻の髪が、ゆらゆらとゆれる。
 そして、海と彼女がふれあったその瞬間。とけるように彼女の身体が崩れおち、髪の反射したきらめきだけをのこして、海は彼女をのみこむ。
 ただのこったのは、きえるようにはかない、泡。
最後は、祈り、だった。
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