窓のむこうで流れおちる雨の粒を、指先でおいかける。指の跡には、クリアな景色。雨でひやされたガラスの冷たさがうつった指をそっとひく。イヤホンから絶えず流れつづける音楽が、ぼんやりと頭をとおりすぎる。
『本日はご利用ありがとうございました。次は終点――』
いつもとおなじ機械的な声が、イヤホンをしていてもきこえた。車内を見まわすと、私ひとりだけだ。いつものことだし最初からわかっていたことだけど、それでもなんだかさびしい。なにも音がない車内。渋滞に巻きこまれてのろのろと亀運転のバス。なにもかも変わりはしない。
ドアがひらく。ゆれることに慣れすぎて、静止状態がむしろ変な感じだ。定期がはいっているはずのポケットをさぐっていた私の目に、あるものがとまった。左の列の一番前のシート、そこにぽつんと置きのこされたもの。
――彼の、傘だ。
まるまった持ち手はにぶい色のシルバーで、たたまれていない。黒の傘は、まだすこし湿っていた。バス待ちをしていた彼が、かなりヒマそうに傘をもっていたから間違いない。
手が、のびていた。
私の手は、その傘をとった。内心は自分の行動に自分でびっくりしていたのに、何食わぬ顔で定期を運転手さんにみせて、私は彼の傘ごとバスをおりていた。いつもどおりに家路へむかっているけれど、手の中の傘が「いつもどおりではない」と主張している。
自分にこんな度胸があるなんてしらなかった。彼のわすれていった傘をもって歩いているなんて、朝この道をあるいていた時は想像もしなかった。
――かえしてあげるの。彼に、傘を渡してあげるの。なくしてこまっているはずだから。
――当たり前のことじゃない。クラスメイトとして。
『それだけじゃないだろう』って、どくどくとはずむ心臓が私をわらっている。
左の列の一番前のシート、そこが、彼のいつもすわっている場所だ。彼はいつもそこに腰をおろして、学校につく直前まで本を読みふけっている。外の景色をみることも、携帯をさわることも、同じバスの友だちと話すこともない。誰も入りこめない彼だけの世界がある。
クラスの中でも彼はそうだ。うるさく暴れまわっているクラスの男子たちをよそに、彼はひたすら読書をつづけている。話しかけられたりしたらしっかり顔をあげて会話をする。けれど、おわって少ししたらいつの間にか本をよんでいる。男子とでもそうなのだから、女子とは全然話さない。
そうはいっても実は、一度だけ彼と話をしたことがある。担任からの連絡の仲介にされただけだったけど。でも彼は私をじっとみて、丁寧に言葉をえらんでお礼をいってくれた。しどろもどろに話をした私とは大違いだ。
――どうしよう。
目の前の黒傘を恨めしい思いでみつめる。あれから三週間たつのに、私はまだ彼に傘をかえせていない。本当ならもうとっくに、持ち主のところにあるはずなのに。このままじゃ私は泥棒だ。
憂鬱な気分をすこしでも払いたくて、テレビをつける。ニュース番組の女性キャスターがうつる。
『うれしいお知らせです。来週には梅雨明けだそうですよ』
――ダメ!
梅雨があけてしまったら、傘をかえせなくなってしまう。
――かえさなきゃ。明日絶対に、傘、かえさなきゃ。