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鎖と楔

 拍手の渦、歓声の波、賞賛の嵐。
 あたたかいそれらにくるまれて、ステージ上の彼女は笑みをうかべている。
 頬が薄紅にそまっていた。そこに嬉しさや誇らしさや満足感がすける。
 持てあますほどの花束を白髪の老人から受けとり、握手をかわす。その瞬間フラッシュが幾度もきらめいて、ちぎり絵のような影を落とした。スポットライトが、彼女の髪に天使の輪をつくる。
 ――素敵な演出ね。
 胸からのどへとせりあがる苦さを飲みくだして、内心、独白する。
 音が、光が、私をさいなむ。
 耳をおおう。目をつぶる。
 ききたくない。みたくない。しりたくない。わかりたくない。
 ――どうしてなの。
 心が凍てつく鎖でしばられる。その冷たさが心をすくませて、心臓をめぐる血から、温かみを奪っていく。
 ――どうしてあそこに彼女がいるの。
 ――どうして私はこんなところで彼女を見ているしかできないの。
 ――どうしてあそこにいるのが私じゃないの。
 あのスポットライトを、みんなの賛辞を、みんなの祝福を浴びるのは、彼女ではなくて私だったはずなのに。
 目の奥で炎がおどる。


 控え室に入って真っ先に見えたのは、熱烈なキスシーンだった。
 灰色の背広を着た男と、白のドレスをまとった女が、腕を互いの身体にまわして唇を重ねている。
 音になるだけだった声がのどを圧迫する。
 つかえを吐きだしてしまいたくて咳払いをすると、その音に気づいたのか、磁石の反発を思わせる勢いで二人が離れた。
愛香(あいか)」「愛香ちゃん!」
 二人は驚きの表情をみせる。けれど、その理由は同じではない。次の表情を見ればわかる。
「よかった。仕事で忙しいって聞いてたから、あきらめてたの」
 まだ衝撃から立ち直れないのに、言葉は反射的に出た。
憂子(ういこ)の晴れの舞台なんだから、スケジュールを押してでも来るわよ。当然じゃない」
 我ながら、よくそんなことが言えるものだと思う。誰かが私の身体を借りて話しているようだ。
「そっか。ありがとう」
 彼女の頬にはまだ、興奮の名残で朱がさしていた。
 当然だろう。世界中が注目する、日本の最高峰の頂――つまり今回のコンクールのグランプリを制覇したのだから。
「来るなら連絡しろよ。迎えに行ったのに」
 私と憂子の幼馴染の宗一は、浮かない表情だ。
「別にいらないわよ。そっちも忙しいでしょ」
「お前ほどじゃないけどな」
 宗一は腕時計に目をやり、憂子に顔をむけた。
「悪い、俺、これから取引先との商談があるんだ。こればっかりはどうしても予定が変更できなくて」
「そう、残念」
 言葉通り、憂子は残念そうな表情を隠しきれていなかった。
「次はお祝いになんかおごるから。愛香も来るか?」
「お邪魔だろうから、お断りするわ。それに、明日には戻らなきゃいけないから」
「えっ、もう少しいたらいいのに」
「私にも都合があるのよ。それに、憂子だって明日からは取材だのインタビューだの特集だの、きっと私なんかの相手してるヒマなんてないわよ」
 憂子は思い当たるふしがあるのか、何も言わなかった。
「じゃあ、俺、行くから」
「あ、うん。会えるなら連絡する」
「わかった」
 宗一は気遣わしげな視線を私によこして最後、部屋を出ていった。
「愛香ちゃん、何か飲む?」
「今はいらない」
「わかった」
 憂子が何か言いたげに私を見つめてくる。しばらく憂子が話すのを待ったけれど、何もない。どうやら私の出方をうかがっているらしい。
 その態度がなんとなく卑屈っぽいと思ってしまうのは、憂子に私の心理を投影しているからだろうか。
「宗一とのこと、どうして言わなかったの」
 明るく言うつもりだったのに、口調がなんとなく咎めるようなものになってしまう。
 憂子は一瞬身体をすくめた。
「ごめんね。隠してたわけじゃないの。宗一とそういうことをしたのは今日が初めてなの、本当だよ」
 憂子のいうところの「そういうこと」は、あのキスのことだろう。
「どういうこと」
「告白されたのは、昨日なの。返事したのも、愛香ちゃんに会うほんの数分前。だから隠してたわけじゃなくて、時間がなかっただけだよ。もし一時間くらい前だったら、憂子、絶対愛香ちゃんに話してたよ」
「……そう」
 私が日本を離れたのは三年前だった。そのときから、二人は距離を近づけていったのだろうか。
 ――もし。
 らちもない考えがうかぶ。
 ――もし私が日本にとどまっていたなら、二人は幼馴染のままでいたのだろうか。
「よかったじゃない。順風満帆ね」
 もう、言葉に棘を含ませることはできなかった。それだけの気力はもうなかった。
 私が手に入れられないものを今日、憂子は二つも手に入れたのだ。
 そう思うといたたまれなくて、私は憂子を視界に入れないようにして、視線をさまよわせた。
 そして、見てしまった。
「あ……」
 金色に輝くトロフィー。私が今までに見たり手に入れたりしたどんな種類よりも、大きい。日本で最もすぐれたピアニストにのみ与えられる、最高の栄誉。
 見たくない。
 けれど、目をそらすこともできない。
「愛香ちゃん、どうしたの」
 ある一点を凝視して身じろぎしない私の様子に気づいたのか、憂子が声をかけてきた。
 けれど、私はこたえることができない。
「トロフィー?」
 目線を追ったのだろう。
 気をきかせたつもりなのか、憂子はトロフィーに近づいていった。そしてそれを重そうに抱え、こちらへ戻ってくる。
「見たいなら言ってくれればいいのに」
 ちがう。ちがうのに。
 なめらかで優雅な曲線を描く表面に、私の顔が横に引きのばされてうつっている。
 ――ふれてみようか。
「持ってみる?」
 胸がおどった。
 そう、これは本来なら私が手にいれるべきものだった。憂子などではなく。
 私にはそれだけの実力があった。憂子は資格さえ持っていなかった。憂子はグズでドジでいつも同じところばかりを間違えて――。
「――遠慮するわ」
「気にしなくていいのに。愛香ちゃんならいいよ。
 だってね、憂子はひとりじゃグランプリをとれなかったから。愛香ちゃんのおかげ。だから、いいの」
「私は何もしてない」
 ――バカな憂子。
「そんなことない。憂子が今日弾いた曲は、愛香ちゃんの曲だよ。憂子の演奏だけじゃ、絶対無理だったよ。
 愛香ちゃんの曲を弾いてるとね、とっても不思議なんだけど、愛香ちゃんが曲にこめた想いをもらってるような気持ちになるの。そのおかげだよ。
 このトロフィーの半分は、愛香ちゃんのものだよ」
 憂子がトロフィーを差し出してくる。
 半分だけなら、いらない。
 私ひとりだけのものになるはずだった。台座のプレートに名を刻むのは私のはずだった。
「やめて」
 とっさに、憂子の身体を押しのけていた。
 さすがの憂子も傷ついたような瞳をしている。
 憂子からもトロフィーからも目をそらし続けたまま、弁解の気配も色濃くとりつくろう。
「少し気分がわるいの。そんな気分になれない」
「大丈夫? 座ったほうがいいんじゃない」
「平気よ、もう帰るから」
「ダメだよ、落ち着いてからがいいよ。憂子、何か気分のよくなるようなもの買ってくるから、休んでいてね」
 憂子はトロフィーを元あった場所にもどすと、財布を片手にあわただしく控え室を出ていった。ハイヒールが床とぶつかる硬質な音が遠ざかっていく。
 憂子はああ言ったけれど、帰ってしまおうか。
 そもそも、どうして私はこんなところに来てしまったのだろう。
 腰をさまよわせて、結局私はトロフィーに背を向ける形で椅子についた。認めたくないけれど、あのきらめきを見るのがつらかった。
 四年前には戻れない。あの秋の日に失ったものはかえってこない。
 もう風化してしまった栄光と激しい虚無感にかたどられた、抜け殻同然のこの身体。
 どこからか救急車のサイレンが響いてきた。もしかしたら、私の記憶の底からよみがえったのかもしれない。
 軽く目を閉ざすと、「あの日」の情景があざやかに浮かんできた。

 山からおりてくる風。バスの低いエンジン音。私の肩に頭をのせた憂子の、細い息。
 開いた窓からの風が少し肌寒かったのに、憂子とくっついた部分だけはあたたかかった。
 私と憂子以外の乗客は四、五人だけ。バスは曲がりくねった細い山道を通っていた。
 次のバス停まではまだ随分時間があった。車内には静寂がただよっていた。景色も単調で代わり映えがなく、全てが眠りへと誘うようだった。
『憂子』
 返事がないので顔をのぞきこむと、いつの間にか憂子は眠っていた。苦笑まじりに、憂子に上着をかけた。
 宗一に送ったメールにはまだ返事がこない。ヒマでヒマで、私はあくびをかみ殺した。
 そのとき、甲高い音が静寂を切り裂いた。後から考えれば、それはタイヤがスリップする音だったのだろう。
 まるでジェットコースターのような無重力感が突然やってきて――
 ――気がつくと私は、泥の中に顔の右半分をひたしていた。
 口の中で砂がじゃりじゃりする。全身にひりひりした痛みがあったけれど、全く動けないわけではなかった。
 何が起こったのかわからなかった。
 少し記憶が混乱していて、最初に思ったのは顔や服にこびりついた泥が気持ちわるい、ということだった。
 そういえば、憂子は。私の隣にいた憂子はどうなったのだろう。それに、私の乗っていたバスは。
 辺りを見回して、私は言葉を失った。
 バスが。さっきまで私の乗っていたバスが――燃えている。
 炎はバスの半分以上を飲みこみ、あと少しで食べつくすところだった。煙や塗料の焼ける臭いが、ようやく鼻にとどく。
 現実の光景だとは思えなかった。塗料のせいなのか、炎は緑、青、橙と華やかで、むしろ綺麗だとさえ感じられた。
『たすけて』
 声が聞こえて、私は我に返った。憂子の声だった。どう考えても、燃えさかるバスの中から。
『あいかちゃん』
 迷うことなく、バスへ駆け寄った。
 ――そこから先は、よく覚えていない。
 気がつくと病院だった。
 白衣をまとった男は、「ピアノはあきらめなさい」と告げた。

「愛香ちゃん」
 目を開けると、「あの日」よりも大人びた顔つきの憂子がいた。
 四年という月日は、確実に彼女を成長させている。見た目だけではなくて、ピアノの腕も、精神的にも。
 私は?
 私は落ちぶれてしまった。
 手のひらを返したように冷たくなる周囲。目を合わせてくれなくなった宗一。日ごとにくすんでいく幾多のトロフィー。
「遅くなってごめんね。冷たいのとあったかいの、どっちがいいか分かんなかったから、両方買ってきたよ。どっちがいい?」
「冷たいほう」
「わかった。はい」
 差し出された缶を受け取る。飲む気分にはならなくて、手の中で転がす。
 私が受け取らなかった方を熱そうに飲む憂子を見ながら、私は何度となく繰り返した問いを再び繰り返す。
 ――どうして私は憂子を助けたのだろう。
 物心つく前から、宗一と三人一緒に育ってきた。
 小学校に入るよりも先に、憂子と一緒にピアノ教室に入った。課題曲をどんどんこなしていく私とは対照的に、憂子は両手で弾けるようになるまで一年かかった。
 無邪気に私の後をついてまわる憂子。
 私の真似をする憂子。
 先生に叱られてばかりの憂子。
 正直に言えば、私は憂子に対して優越感を抱いていたのだ。
 憂子は見下すだけの存在だった。憂子は愚かでなくてはいけなかった。
 そうすれば、私は大人に褒めてもらえる。惜しみない賛辞をもらえる。自分の才能にうぬぼれることができる。
「愛香ちゃん、飲まないの? 別のがよかったなら、また買ってくるよ」
「飲む」
 プルタブを引きおこして、流しこむ。味はよく分からなかった。
「向こうの生活はどんな感じ?」
「順調。言葉の不便もだいぶ減ってきたし、食事も慣れればそれはそれでいいものだから。たまに思いがけない有名人とも会える」
「こっちにも時々噂は聞こえてくるんだよ。『新進気鋭の作曲家』って」
「……そう」
 ピアノを忘れられなかった。ずっと頭の中で曲が鳴り響いていて、気がどうにかなりそうだった。
 鍵盤をたたく代わりに、曲を楽譜に書きなぐった。気持ちは紛れずに、焦燥ばかりがつのった。
 たまたまそれを見た知人が音楽プロデューサーを紹介してくれて、そこから私の作曲家としての新しい毎日がはじまった。
 再び賞賛を浴びるようになったけれど、一度味わいつくしてしまったそれにはもう、なんの魅力も覚えなかった。
 賛美には裏があることを、笑みには企てがあることを、花束には毒があることを、私は知ってしまっていた。
「ねえ、愛香ちゃん」
「なに」
「ずっと言おうと思ってたことがあるの。でも言えなくて。だけど今、言うね。グランプリとれたから」
 憂子の声はふるえていた。鼻はあかくて、目のふちに涙がしがみついている。
「四年前、憂子を助けてくれてありがとう。今こうしていられるのは愛香ちゃんのおかげだよ」
 彼女がまばたきをすると、涙がこぼれた。それはとても透明できれいで。
 憂子は鼻をすすりあげる。ピアニストとは思えない乱雑な手つきで目をこすった。
「愛香ちゃんが笑わなくなったの、憂子のせいだよね?」
 いつもなら、このタイミングでなければ、私は「そんなことない」と言っていたのだろう。
 だけど今は。
「そう……よ」
 圧縮された感情がはけ口をもとめている。のたうちながら這い上がって、喉にのぼる。
「全部アンタのせいよ!」
 感情の高ぶりをそのままに声をはりあげると、憂子は身体をすくませた。
 憂子のドレスのえりをつかむ。うるんだ目が私を見つめる。
「ごめんなさい」
「かえして。私がなくしたものを全部、かえして!」
 一滴、二滴。
 憂子の涙が私の手の甲にこぼれる。骨をも溶かすような熱さ。
「ピアノだって、宗一だって、本当なら全部私が……!」
 つめたい頬をあついものがしたたる。むせびながら叫ぶ。
「アンタなんて助けなければよかったのに」
「ごめん、ね」
 そんなの聞きたくない。ほしくない。
 ――わかっているのだ、本当は。
 憂子は何も悪くない。
 謝罪なんていらない。その言葉があっても時は元にもどらない、私の輝かしい日々はよみがえらない。
 そんなことはわかっているのに、この気持ちをどこに向ければいいのかわからない。
 手を放すと、憂子はその場にへたりこんだ。私の服のすそに取りすがる。
 憂子の涙が私の服を湿(しめ)していく。誰のものかわからない嗚咽がこだまして、なんだか耳障りだった。
 心を縛る冷たい鎖がこすれて、かしましい金属音を立てている。だけどそれはまるで鈴のようにも聞こえるのだ。
「ごめんね、ごめんね、愛香ちゃん」
「うい、こ」
 小さすぎる憂子、酷すぎる憂子、優しすぎる憂子。
 ――あんまりにも弱すぎて頼りない、私のたったひとりの、……妹。
 何も言えずに、ただ、彼女の華奢な肩を見つめた。
 憂子のあたたかい涙が、いつか、私の心の鎖を溶かす日が来るのだろうか。
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Copyright © 2009 Fumina Tanehara. All rights reserved.
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後書き(反転してご覧ください)
   初版脱稿は2005年です。四年経ってようやくサイトで公開です。我ながら推敲に時間かけすぎだと思います。人間の感情は難しいです。結構消化不良です……。
   ピアノネタ+どろどろ(のつもり)が『A Pianist』にかぶりすぎですが、メイン要素は恋愛じゃないから!と開き直ります。どうやら私はピアニストのお話が大好きみたいです。←ここまで
公開 : 2009.03.14