[ 小説目次へ / サイトトップへ ]

A Pianist

「どういたしまして」
 わずかに顔をあかくして少年がいう。少年の瞳にうつるのは、涙に目をうるませてほほえんだ少女一人だ。
「大すきよ。私、健人のこと、本当に大すき」
 だから、と口の中でちいさくつぶやいて少女は空をみた。あかい空の端には、夜がせまる。
「いこう、健人。私、まけない。きっと勝つ」
「俺がついてるのに菜穂がまけるわけないだろ?」
 少年の言葉に少女がほほえむ。その拍子に、少女の目からきらきらした雫がこぼれおちた。少年がぎこちなく手をのばし、デリケートに涙をぬぐう。


 時をきざむ音に、鈴をたたく音がかさなる。鈴の響きの余韻のきえない内にまた時はきざまれ、再び鈴がたたかれる。狂いなくそれをくりかえすメトロノームの振り子を、少女がとめる。メトロノームのある机に、少年がうつぶしてねむっていた。少女はおかしそうにわらい、身体をかがめた。そして、少年の耳へ何事かをささやく。
「だからっ、それはちがうんだって!」
 さけびながらはねおきた少年がみたのは、お腹をかかえて大笑いする少女の姿だった。一瞬呆然とする少年だったが、数秒後には状況を理解する。少年をたたきおこした驚きは彼方へとさり、怒りが高速で全身をかけぬけた。
「菜穂っ、お前」
 さけんだはいいものの、怒りと驚きのあまりに次の言葉がでてこない。
「よくお袋が部屋にいれたな」
 少女は肩をすくめた。
「いなかったよ。メトロノームで健人いるってわかってんのにかえるほど私バカじゃないって」
「鍵、かかってなかったのか?」
 嫌な予感を意図的に無視してたずねた。こともなげに答えはかえってくる。
「鍵の場所かわってないんだもん。不法侵入の私がいうのもアレだけど、かえた方がいいね、絶対」
 嫌な予感、的中。しかもド真ん中で。ため息をついた少年の顔を、わかっていない少女が「どうしたの」とのぞきこむ。少女のととのった顔立ちにみとれる。胸ぐらいの長さの髪を、ヘアピンでまとめていた。目はおおきく、鼻はつんとたかい。
「何? 私の顔になにかついてる?」
「いや、別に」
 突然きかれてどぎまぎする。まともな返事ができない。
「いいなさいよっ」
  ウィークポイントを遠慮なくくすぐられて身もだえする。少女は手加減なしでさらにくすぐりつづける。子供のような攻防がしばらくつづいて、少女が少年のところにやってきた用件をおもいだす頃には、少年は既に虫の息だった。
「こんなことしてる場合じゃないのよ。今日はちょっと健人に頼みが、って。ねぇ、健人、大丈夫?」
 少年の唇が、ふるえながらも「誰のせいだよ」とうごいた。うごかすだけで精一杯なので声にならない。だが、長年の付き合いのおかげで、少女はそれを理解した。頭をかく。
「私のせい、だねぇ、これは。あはは」
 「あはは」じゃない。俺が再起不能になったらどうしてくれる。恨みもこめてにらむ。
 突然ドアが勢いよくひらく。壁にぶつかってはねかえってまたしまりそうになったが、それをおさえた手がある。きびしく目をつりあげた中年の女性だった。
「お袋!」
 女性は腰に手をあてて仁王立ちした。少年をみる。
「何をやっているの。譜読みはすんだの?」
「まだ」
「何をやっているの。ふざけるヒマがあったらやるべきことはすませなさい」
 机にむかう自分の息子をきびしくみつめた女性は、居心地わるく尻をムズムズさせている少女をみた。少年の時のきびしさがぬける。かといってやさしくなったのではない。感情に鍵をかけてとじこめて、女性は少女をみる。
「菜穂さん、私はいったはずね」
 少女の無理をした作り笑いがこわばった。
「『健人がレッスンにはげんでいる時は邪魔をしないで』と、何度もいったわね。そうよね」
「いったわ」
「ペットだって、何度もいえばわかるのよ。知り合いの犬はとても優秀だったわ」
 遠まわしに、少女を「犬以下」とあざける言葉だ。少女の全身が緊張する。少年は目の前の楽譜を凝視していた。にぎったシャーペンは音をたててきしんでいる。必死で音符をよみとこうとしても、それはただの記号にすぎない。綺麗でやさしい少女にくらべれば、何の意味もない記号だ。
「でていきなさい」
 女性の言葉のおわらない内に、少女は部屋をとびだしていた。ドアがひらいてしまる音が、階下からひびく。
「しんじられないわ。あんな無作法で非常識な子」
 きくな。少年は自分にいいきかす。
「健人。あんな子と無理してつきあうことないわ」
 猫なで声というのは、相手の機嫌をとるためにあるのであって、決して感情を逆撫でするためのものではないはずだ。
「あんな子」
 やめろ。
「うまれてきたのが」
 やめろやめろやめろ。
「まちがいなのよ」
 ――!
 目の前が、陽射しのような怒りにしろくそまった。だらん、手がおちて、怒りの陽射しが自分を操縦する。
「だまれっ!」
 とおくで大きな音がなった。にくい。目の前の女の存在をこわしたい。刃物で腹を抉って、目を潰して、ペースト状になるまで脳みそを砕いて、
「あの子のせいね」
 視線と視線がぶつかりあう。
「あの子のせいであなたはかわったわ。前はもっと素直に私のいうことをきいたのに、今は反抗してばかり」
 頭があつくいたむ。でも胸は永久に融解しない氷のようにつめたくしずかだ。
「でていけ」
「もうあんな子とかかわるのはやめなさい!」
「でていけっていってるだろ」
「きっと後悔するわ。私の話をきかなかったこと」
 部屋からでていく女性が捨てゼリフでいった。ドアが音たかくしまる。ふかくため息をついて、我知らずたちあがっていた自分にきづく。とおくの大きな音は、椅子がたおれたものだった。
 たてなおした椅子にすわって、誰もいない空間に少年は独白する。
「後悔なら、いつもしてる」
 少女はなくのだろうか。そしてその涙を、誰がみつけるのだろうか。
「あなたの子供にうまれてきたことを、いつも後悔してる」

「綺麗だよなぁ、いつみてもどこからみても」
 時刻は昼休み。数すくない親友の浩也がつぶやいた言葉に、少年は顔をしかめる。購買部特製の焼きそばパンをかじった。
「わるいな浩也。その気持ちはうれしい。だけど俺、男色の趣味はないんだ。よそをあたれ」
「バッカ、誰がお前なんかと」
「じゃあ誰だよ」
 パンからはみでた焼きそばをすすってのみこんで、少年は緑茶のはいった紙パックに手をのばす。
「きまってるだろ。菜穂先輩だよ! あの黒髪にさわれるなら、俺何でもする」
 少年はむせた。そんな少年を親友は、きたないからちかよるなとばかりににらみつける。
「菜穂って、もしかして」
「三年の玖珂菜穂先輩だよ!」
 少年は何もいわずに緑茶をのむ。
「今でも意外なんだよなぁ。あのさいたばかりの花のように可憐な菜穂先輩と」
 再びむせた少年を、親友は無視する。
「お前が従姉弟なんてさ。まぁ、納得できるところもあるけど」
「へぇ、どこが」
「顔。菜穂先輩もお前も、キレイな顔してる」
「女にいわれてもうれしくねぇことを男にいわれたら吐き気がしてくる」
 のみほして空になった紙パックを、少年はゴミ箱に捨てにいく。ついでに、ゴミ箱の周りにおちているゴミもひろいあつめてすてる。
「律儀よねぇ、健人は」
 少年はふりかえる。教室のドアにもたれて少年にほほえみかけている人物と目があった。
「菜穂先輩!」
 親友の声が教室にひびいて、教室中の生徒が少女をみた。たくさんの視線をあつめても少女はたじろがない。少女にとって、人にみられるということは日常茶飯事だからだ。手をひらひらとふったりする余裕っぷりはまるで大物芸能人である。
「こんにちは、浩也くん。久しぶりだけど元気?」
「お久しぶりです、元気です。菜穂先輩、どうしてここに?」
 少女は少年の肩に手をのせた。少女より少年の方が身長がたかいので、少年は身体をかがめる。
「ちょっと健人に話があるから、かりていってもいい?」
「どうぞ! こんなのでよかったらいくらでも!」
「誰が『こんなの』だよ!」
 少女はにっこりとわらう。少女を信仰する親友でなくともイチコロにしそうな笑顔だ、と少年は胸中でぼやく。
「ありがとう。じゃあかりるわね。バイバイ」
 少女は少年の手をひっぱって教室をでていく。教室をでる時少年がみたのは、いかにもくやしそうな親友と、うらやましそうなクラスメイト。
「空、あおい」
 少年がつれてこられたのは屋上だった。快晴の空には雲一つない。あおい空はすみわたり、ただたかい。陽射しのまぶしさに少年は手で日除けをつくった。少年の影に少女がすわる。
「健人、そのまま。いい日除けになるわね」
「人を利用してんじゃねぇ」
 そうはいっても、少年は少女のための日除けでありつづける。少女はてれくさくわらう。人の純粋な好意はありがたくてうれしいものだ。だが、てれくさいものでもある。
「菜穂、ゴメン」
「何が? テストでカンニングでもしたの!?」
 少女は目をつりあげる。
「ちがうって! ……昨日、お袋がひどいこといって、ゴメン。菜穂は何もわるくないのに」
「もうそんなこといいよ。昔から叔母さんはあんな感じだったもん。なれてる」
 少女の表情に一瞬はしったものは一体何だったのだろう。少女は何もかもためこんでしまう。少年には何もいってくれない。少女はいつも一人で自己完結させて、いつもただわらうばかりだ。
「そんなことよりも、ちょっと健人にお願いがあるの。もうすぐ桐島祭だよね」
「あぁ、学祭な。確かにちかいけどそれがどうしたんだ?」
「私、今年卒業でしょ? だから、高校生活最後に思い出がほしいとおもったの。だから、後夜祭にでようかなぁって」
「へぇ、いいんじゃねぇの?」
 少女はニヤリとわらった。
「そうでしょう? だって健人もでるんだから」
 適当に相づちをうとうとした少年は直前できづく。俺もでるだって?
「俺も? 嘘だよな?」
「もちろん本当。もう申し込みはしたから、しあさってオーディションよ。がんばらなくっちゃ」
「お願いっていってなかったか?」
 少女はまたニヤリとわらう。
「もちろん、お願いよ。健人が伴奏で私がソロだから、曲きめておいてね」
「ふざけんな、俺は伴奏はしない主義なんだよ!」
「なつかしいなぁ。家に泊まりにきて、一人でねるの嫌だからって私の布団にもぐりこんできたのは誰だっけ?」
 少年はぷいとよそをみる。
「そんなの、五歳の頃だろ!」
「なつかしいなぁ。私が冗談でファーストキスをうばったらないたのは誰だっけ?」
「そんなの、四歳の頃だろ!」
 少女はなつかしさとおもしろさに目をほそめる。一陣の風が二人のきている制服をはためかせた。風が予鈴をはこぶ。たちあがりかけた少女を、少年は肩をおしてすわらせる。日除けをうしなった少女の瞳に、陽射しがつきささる。少女には、少年は影のようにうつる。
「健人? どうしたの?」
「このまま授業、サボらないか? 今からじゃ間にあわない。どうせなら一緒に」
 少年は顔をちかづける。少女は少年の唇をおおって顔をそむけた。
「学生の本分は学業よ。そんなんじゃ、大学いけなくなるわよ」
「いけなくてもいい。菜穂が一緒ならいい」
「いつまでも一緒にいたいけど、いつか、はなれるわ」
 少女がとおいとおもってしまうのは、少年の錯覚なのだろうか。このままでは、いつか少女は少年のしらない場所にいってしまう気がするのだ。
 だからだきしめる。どこにもいかないように。
「健人、授業がはじまっちゃう。はなしてよ」
 少女のとまどう声がきこえても少年は無視した。本鈴の音がした。授業をあきらめて、彼女は少年をだきしめかえす。彼女より身長がたかくても、これではまるでちいさな子供だ。

 後夜祭の練習は、少女の自宅ですることになった。少年の家だと親の目がある上に、少年の母親がまた暴言をはく可能性があった。少女の家は、両親が海外公演でほとんど家にいないことも、定期的に調律されているピアノがあることも、正に好都合だったのだ。
 少年の指ならしの後に、少女の発声練習、その後に少年の伴奏で少女がうたう。時々休憩がはいる。少女のいれたハーブティーと少女特製のクッキーをのんだりたべたりして、また練習にもどる。
 少年は少女に無理をさせなかった。少女がうたいやすいように、一部を作曲したりする。つかれた素振りをみせたら休憩をはさむ。唄のテンポにさりげなくピアノをあわせる。
「不思議だな」
「何が?」
 少年は少女のいれるハーブティーが気にいっていた。ハーブの名前はしらないが、しっている味がする。ハーブの香りは、少女の香りににている。
「俺、伴奏きらいだった。いらないものがまとわりついてくる気がして、イライラして、一度も伴奏なんかしなかった。でも」
「でも?」
「菜穂の唄はちがう。俺のピアノにたりない『何か』をうめてく。菜穂の伴奏は、心地いい」
 少女はクッキーを口にいれ、それをハーブティーでのみこむ。
「伯父さんと伯母さんは元気か?」
「元気なんじゃない? 夫婦揃って海外公演だし。たまにかえってきたとしても私には一言もないけどね」
 玖珂は、嘘か本当か、ヨーロッパの著名なピアニストの末裔だという。そして一族は代々、ピアニスト同士の婚姻をくりかえしてきた。玖珂家の人間は全員、並はずれた美貌と、やはり並はずれたピアノの技量をほこる。玖珂の子供は皆、サラブレッドのピアニストなのだ。少女も少年も、玖珂の人間の特色であり証拠でもある美貌をもってうまれてきた。
「私がいなくなっても二人とも気にしないわ。むしろよろこぶでしょうね」
 そんなわけがない、とは少年にはいえない。簡単にはそういいきれない現実を少年はしっている。少女は玖珂家の人間でありながら、ピアノがひけない。幾多のピアニストを輩出してきた玖珂家にとって、少女の存在は一族の恥さらしでしかないのだ。だから少年以外の一族の者は皆、少女を冷遇する。
「俺は、菜穂がいなくなったら絶対にさがす。必ず」
 少女が微苦笑をうかべる。
「やだ、そんな顔しないで。私はどこにもいかないし、いく所もない」
 ――俺は無力だ。
 玖珂でもたぐいまれなピアニストでも、ミスター桐島の最有力候補になるほどの美貌でも、そんなものはなんの役にもたたない。そんなもので、目の前の少女を一族の迫害からまもれはしない。
 ――俺はどうしたらいい。菜穂をまもるために、どうしたら。

「次の次の次だ。心の準備はできてるか?」
「私をナメないでよ。これでも合唱の大会とかコンクールとかの常連なんだから」
 少女は衣装としてしろいワンピースドレスをきている。少女の母親の昔の衣装を無断でかりてきたらしい。
 少女とは対照的に、少年は上から下まで全て黒づくめだ。理由は二つある。
 一つは二人の白と黒の衣装でピアノの鍵盤をイメージしたかったから。二つ目は、ピアノと同じ黒をきることによって、あくまでも主役は少女の唄だということを表明したかったからだ。
「どう、健人。いいでしょう」
 『いいでしょう』といわれても、どこがいいのか少年にはよくわからない。少女が一回転した時に、ひらりとゆれたスカートの形が優美だったのでそれをほめる。
「そんなのじゃなくって、もっとない? かわいいとかきれいとかなんとか」
「俺にそんな才能ねぇって。何もなくても菜穂は充分」
「つまんないわね」
 少女は机の上にすわり、足をぶらぶらさせる。とおくから拍手と歓声がきこえる。
「おわったみたい。次の次か。今からはじまるのがおわったらスタンバイよね?」
「あぁ」
 アナウンスが、二人のいる控え室にとどく。お疲れ様でしたというねぎらいと、次の発表の紹介だ。
「ごめんね、健人。私の都合につきあわせちゃって」
「イマサラビビったのか?」
「ちがうわよ! すこし、わるかったなぁって急におもって」
 少女に顔をちかづける。
「俺は平気だ。菜穂のためならこんなこと何だってない」
 人はどうして、ただ唇と唇がふれあうだけの行為を愛情表現だというのだろう。極論してしまえば、ただ皮膚と皮膚がふれあうだけ。手をにぎることと大差ない。
 なのにどうして、こうしてキスをする、その度に相手がいとしくてたまらなくなるのだろう。皮膚と皮膚がふれあうだけ。手をにぎることと大差ない。そうわかっているけれど。
『舞台発表の最後をかざるのは、三年の玖珂菜穂さんと一年の玖珂健人くんによる――』
「喉は万全か?」
「もちろん。健人は?」
「俺も」
『――それではおききください。オペラ・リナルドより、ヘンデル作曲・私を泣かせてください』
 この曲をえらんだのは少女だった。はじめて名前をきいたが、これはオペラの曲なのだという。少女は色々オペラの内容についておしえてくれたが、あまり頭にのこっていない。十字軍に魔法使いに一目ぼれやらキリスト教やらで話がややこしかった。なんで女はこういうのがすきなのだろう、というのが少年の素直な感想だ。
「Lascia ch'io pianga la cruda sorte」
 歌の歌詞はイタリア語だ。何語でもかわらない清流のような声がひろがっていく。声に心を、意識を、身体をからめとられそうになる。心や意識を紙とするならば、少女の声は絵の具をふくませた絵筆だ。紙に色をのこして、色あせさせない。
 全身がふるえて総毛だつ。この声をだしているのは、本当にあの少女なのだろうか。一族の人間からいつも冷遇されて、誰にもみえない所でないて、自分の心をころしていた、あの少女なのだろうか。
『苛酷な運命に涙し、自由にあこがれることをおゆるしください』

 夕暮れにそまる帰り道をあるく。夕陽に全てあかいのに、空気はそまらずに透明だ。
「なかなかうまくいったよな」
「結構うまくいったわ」
 そっと少女の手をとってにぎる。少女の体温がじわりとしみる。少女はおどろいたように目をみひらいたが、にぎりかえした。あるく。あるきつづける。
「俺の家、こないか」
 少女は何もいわない。
「お袋とか親父とかに俺たちのこと、はなそう」
「わかってくれないわ」
 少女はいつも心の奥底を暴く。暴かれてもいい。どんなに傷ついてもいい。
「わかってほしいなんておもわない。理解してもらえてもはねのけられても、だからって想いがこわれるわけじゃない」
「こわれるわ。私は臆病で卑怯だから、否定されたらきっと、健人への想いをなくす」
 少女がいたいほどに手をにぎりしめる。力がはいりすぎて、手がぶるぶるとふるえる。
「お願い、この気持ちだけはなくしたくない。健人をすきでいたい。私からうばわないで」
 作りものめいてきれいな少女の、頬を涙がぬらしていた。雫となった涙がしたたり、少女の服をしめらせる。少女のぬれた瞳に、少年がうつる。少女の瞳の中にいる自分を少年はみつめる。
「俺、今日舞台で発表している時にきづいたことがあるんだ」
 心の中に炎をともす。ともしてくれる人を、もうみつけている。
「菜穂はピアノがひけない。でも、ピアノなんかひけなくてもいいんだ。菜穂には歌がある。菜穂はピアノの才能の代わりに、歌の才能をもってうまれてきたんだ。菜穂はうたえる。俺は菜穂のためにピアノをひく。それでいいんだ」
 涙の筋がてらされて、にぶくひかる。
「健人、私は。……私は、ずっと健人がうらやましかった」
 つよくにぎりしめすぎた指先はしろい。
「うらやましかった。大人たちにかわいがってもらっている健人が、うらやましくてたまらなかった。だから健人に『すき』っていわれた時、うれしかった。けど」
「……」
「くやしかった。どうしてあんなに一族の人にあいされているのに、それをすてて私をえらんだのって。バカにされたとおもった」
「そんなつもり」
「ないのは最初からずっとわかってた! 健人のことをしんじられない私が嫌!」
 少女は手のひらの中に顔をうずめる。声がくぐもる。
「俺は菜穂のこと、すきだ」
 手のひらの中で少女は目をみひらく。あたらしい涙が、意味合いのちがう涙がながれていく。少女は手をどけた。そしてほほえむ。
「ありがとう」
[ 小説目次へ / サイトトップへ ]
Copyright © 2005 Fumina Tanehara. All rights reserved.
この作品を含めた全作品のダウンロード→ ZIP / LZH
後書き(反転してご覧ください)
   実は、ず〜っと前から目論んでいた作品なのです。二つの意味で。一つは『才能に悩む天才ピアニスト少年』と、も一つは『istシリーズ』。
   istシリーズ第一弾は『A Violinist』(←改稿のため倉庫に移動中)です。音楽系統になったのはただの偶然です。istな人たちの恋物語シリーズです。やっと続きの目処がたった。←ここまで
公開 : 2005.12.17