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魔弾の射手

 写真機をのぞきこんでいた男が顔をあげた。
「もう動いていいですよ」
 椅子に腰かけていた女性は息をつきながら姿勢をくずした。彼女は藍の(かすり)に、鮮やかな柄の帯を合わせていた。髪は簡単な束髪に結い上げている。ほつれ髪のかかる頬はまるく、桜のつぼみの色だった。
 まだ直立不動の姿勢を保っている男性に気がつくと、肩をたたく。
「Die Fotografie scheint vorbei gewesen zu sein」(撮影は終わりました)
 そう言われて彼も全身の緊張をほどく。首をぐるりと回すと、金色の髪がゆれた。まばたく瞳は青く、立ち上がった彼女とは頭一つ分の背の差がある。
 撮影用の部屋を出ながら、男性は彼女にたずねた。
「Brauchen Du ein Foto?」(写真をもらうか?)
 彼女は彼を見あげる。黒い瞳を揺らし、小さく告げる。
「Nein」(いいえ)
 そして目をそらしてしまう。預けていた外套と襟巻きを受付で受け取り、外套を彼に着せかける。腕を通すと、彼はそでを握りしめた。襟巻きは自分で巻く。
 写真館を出ると冷たい風が彼らの頬をなでた。二人はほぼ同時に身をすくめる。通りをゆく人々の息は白い。彼が歩きだすと、その半歩後ろを彼女がついていく。
 彼は後ろを見やり、立ち止まった。彼女もそれに従う。
「Benutzen Du dieses」(これを使え)
 彼が襟巻きをはずして渡すと、彼女は首ををふった。それでもすすめると、おずおずと受け取る。しかし巻くことはせず、ただ襟巻きを握りしめている。
 彼は彼女の手からそれを取ると、くるくると首に巻きつけた。
「Danke」(ありがとうございます)
 彼女の鼻の頭は赤くなっている。再び歩き出すと、彼は外套のえりを掻きあわせた。だんだん歩く速度が遅くなる。それは彼女の歩幅に合わせたものだ。
 幾度も彼が振りかえるたびに、彼女は襟巻きの端をいじった。


*


 夜が濃くなっていく。
 まるでそれを切り取ったように黒い髪の彼女が、彼の言葉を待っていた。黒い瞳が彼を見つめる。
 彼の本国にも黒髪や黒目の者はいたが、比べると色合いや艶がちがった。何もかもを吸いこむかのような黒を、彼はぼんやりと見つめる。
「アルトドルファー様?」
 彼ははっと我に返る。彼女を呼んだ用件を思い出した。
「もうすぐ友人が来るが、ドアを開けるだけでいい」
 ひそやかな笑い声が起こる。彼にはそよ風の吐息に思われた。
「かしこまりました」
 彼女が退室するのを見て、手紙入れの底から一通の封筒をとりだす。印章のある封蝋は、数日前、彼自身によってはがされていた。
 開けて中身を取り出すと、もう何度も見た青黒いインクの文字が目に飛びこんでくる。
『我が息子ハインリヒへ』
 その一文から最後の行に目をすべらせる。
『帰ってきなさい』
 力強い筆致のそれは、最後通牒だ。
 ため息をついて、目をもみほぐす。
 父の仕事の一環として、彼がこの極東の国に単身やってきたのは数年前のことだ。ただでさえ仕事に忙殺されているというのに、身の回りのことまでこなすのは不可能だった。だから現地の人間を下女として雇うことにしたのだ。
 そうしてやってきたのが彼女――ナツだった。
 最初に会ったときは、あまりに幼く見えて驚いた。この国の者はただでさえ年若く見えたが、彼女はその中でも群を抜いていた。
 彼女も異邦人と接するのは初めてだったのか、最初は何を言ってもビクビクしてばかりいた。しかしその内に慣れたのか、彼の母国語をおぼつかないながらも話すようになった。
 ――俺が帰ったら、ナツはどうなるのだろう。
 この国は数十年前の閉鎖的なころと比べ、めまぐるしく変化している。その激流の中に、身寄りがないらしい彼女を放り出すのは無責任に思えた。
 しかし、新しい勤め先を探すのにはなぜか抵抗があった。彼女を自分以外の誰かの元へ行かせたくないのだ。
 ――どうして俺はナツにこだわるんだ。
 最初はただの下女としか思っていなかったのだ。
 だが、幼い外見とは裏腹に彼女は賢かった。商談で話が行きづまったりすると、絶妙なタイミングで、空気をやわらげるように茶菓を供してくる。
 そのうえ真面目な性格で、掃除も手を抜かない。ほつれかけているボタンなど、彼女を雇ってから見たことはなかった。
 彼女の賢さや真面目さを見るにつけ、どんどん印象は変化していった。正直なところ、最初は未開の地の者とみなしていたのだが、今は、彼女なしでは毎日が送れないほどになっている。
 ――いや、ちがう。
 彼女に執着するのは、便利だとかそういう損得勘定の問題ではない。冷徹なまでの合理性でビジネスの世界を生きてきた彼には、その感情は未知のものだった。
 どうしても離れがたく思えるこの愛着につける名を、彼は知らない。
 ――それなら、彼女も一緒に国に帰れば。
 また同じ結論にたどりつく自分に辟易(へきえき)した。彼女に身寄りのないことが好都合だとすら思えてくるのだから重症だ。
 彼にとっての故郷は、彼女にとって見知らぬ異国だ。文化や風土の違いが与える苦痛は身をもって知っている。それを彼女に味わわせたくはない。
 そのとき、軽いノックの音が室内に響いた。
 少しドキリとしたが、封筒を机にしまい、何食わぬ顔で返事をする。部屋に入ってきたのは見慣れた顔の男だった。先ほど彼女に伝えた客だ。
「ネイサン」
「ハインリヒ、元気か?」
 ネイサン・アスカム。栗色の髪を短く刈りこんだ長身の男で、彼と同じく、仕事のためにこの国にやってきた。何度か取引をしたことがあり、境遇も似ていたため、ビジネス抜きでも付き合うようになったのだ。故郷は違うが、ネイサンの母親は彼の国の出身だそうで、言語の面で困ることはなかった。
 雑談を交わしている内に、ナツが紅茶を持ってくる。紅茶にうるさいネイサンだが、彼女のものはいつも黙って飲んだ。
「もうすぐ夕食ができます」
「そうか。食っていくか?」
 そう訊ねると、友人は破顔する。
「もちろん。ナツの料理は最高だからな。俺もそんな料理人がほしいくらいだ」
 横目に彼女を見やると、ほめられているのがわかるらしく、頬を赤らめていた。言葉がストレートな友人を、ときおりうらやましく思うときがあった。質実剛健を自らに課している彼は、そういうことが苦手だった。
「用意してもらえるか」
「かしこまりました」
 一礼して彼女は部屋を出ていく。
「ところで今日はなんの用だ。金なら貸さん」
 彼女の淹れた紅茶を飲みながら言う。茶葉の選択なども彼女任せにしているが、なかなかのセンスだ。
「ああ。俺、国に帰ることになったんだ」
 なんでもなさそうな表情で言うせいで、いつもの与太話かと流すところだった。
「急だな」
「遊んでいないで自分の元で勉強しろ、だとよ。俺だってちゃんと勉強しているつもりなんだが」
 その「勉強」がロクな意味でないことはよく知っている。彼が知っているだけでも、何人の女が泣かされてきたことか。友人とはいえ、あまり彼女に近づけさせたくない男だった。
「自業自得だ。反省しろ」
「冷たいな」
「これっきりというわけではないだろう」
「そうだけどな。色々と片付けることがあって厄介だ」
「自業自得だ」
 とことん遊びつくしてきた男だ、ツケや借りは山とあるに違いない。
「そういえば、先週貸した金のことだが」
「あー、ところでお前はいつごろ帰るんだ?」
 あからさまに話をはぐらかされたことに気づき、彼は眉をひそめる。だが、追求してもするりと逃げられてしまうことは経験からわかっているので、深追いはしない。
「親父からは帰国を促す手紙が来ているが、もうしばらくいるつもりだ」
「ナツのためか?」
 なんでわかるんだ、と彼はますます顔をしかめる。ネイサンはその表情をさも面白そうにながめていた。
「ほっとけないんだろ」
「当たり前だ」
 お前は生真面目だからな、とつぶやいてネイサンは紅茶をあおる。勝手にポッドからお茶をそそぐ。
「でもこの国に骨を埋める気はないだろ?」
「それは、そうなんだが」
「だったら遅かれ早かれ別れは来るんだ。そのとき彼女をどうするんだ?」
 なんだかイライラした気持ちでカップを取るが、中身がなかった。ポッドからそそぐと、半分も入らない。それでますます不愉快になる。
「ナツなら他でもやっていける」
「だろうな。異論はない。で、お前はそれでいいのか?」
 図星だ。何も言えず、足を組んでこめかみをもみほぐす。
「お前、彼女に惚れてるだろ」
 ――今この男は何を言った。
 手も止まるというものだ。
「なんだよ、無自覚かお前? パブリックスクールに入りたてのガキじゃあるまいし」
「そう見えるか」
「なめんなよ、流した浮名はカウント不能の俺が言うんだぜ」
 ネイサンの言葉には妙に説得力があった。合理的に考えてみても、この感情は「恋」とラベリングするしかないように思われる。
「そうなのかもな」
 彼が深くうなずくと、何がおかしいのかネイサンは爆笑した。
「何を笑ってる」
「いやあ、クソ真面目な誰かさんが恋とはねー! まるで『魔弾の射手』だな」
「どういう意味だ」
 知らないのか、と意外そうな顔で言われる。もう一度うなずくと、明らかに得意そうな顔をした。
「オペラだよ。一つだけ思い通りにならない矢があるんだ」
「それと俺と何の関係がある」
「言わせんなよ。野暮だな」
 拳の欲求と理性が闘っていると、ネイサンは演技がかった口調で嘆息する。
「ナツの茶を飲めるのも、これが最後かな」
「それなら、送別会でも開くか?」
「悪くないな」
 派手なことが大好きな彼の友人は目を輝かせる。こんなどら息子を持った親に心底同情した。
「ただし」
「あ? なんだよ」
「俺に借りた金はきっちり全部返せよ」
 わかったよ、と苦い表情で返事をするネイサンをみて、彼は溜飲を下げるのだった。


*


『ナツ』
 彼女が家を出ようとすると、彼が声をかけてくる。
『なんでしょうか?』
『金があまったときの話だが』
 手の中の、先ほど渡された紙幣に目を落とす。今夜は彼の友人の送別会がある。その買出し用に、と渡されたものだ。それにしては必要分よりも額が大きいな、と思っていたところだった。
『それは自分のものにしなさい』
『そんな、お返しします。お給金はちゃんといただいています』
 思わず突きかえそうとした手を、骨ばった手がつつむ。
『かまわない』
 彼女は彼の青い瞳を見つめた。彼の表情は読めたためしがなかったが、言葉はいつでも彼の本心を表していた。だから困ったときはそれを信じることにしている。それに彼は言ったことには責任を持つ男だった。納得するまでは決して曲げない。
 結局、彼の厚意を受け入れるしかないのだ。罪悪感が胸にこげつく。
『ありがとうございます。……すみません』
 頭を下げる。お辞儀という習慣を持たない彼にするのはなんだか奇妙な感じだったが、それでも気持ちは見せたかった。
 顔をあげると、じっと見つめられていることに気づく。
『ナツ』
『なんでしょうか?』
 まだ包まれたままの手が熱い。それはどちらのものなのだろう。手に汗をかいてしまう。
『……遅くならないうちに帰ってきなさい』
 手をはなし目をそらすと、彼はきびすを返して自室に戻っていった。まだぬくもりの残る手を握る。
『行ってまいります』

 肌寒くなってきていた。もうしばらくすれば、雪が冬を連れてくるのだろう。
 風に彼のぬくもりを奪われることを厭い、彼女は手をこすり合わせた。
夏生(なつき)
 不意に呼び止められる。声のした方を向くと、きっちりと洋装に固めた女性がいた。誰かわからずに首を傾げると、その女の赤い唇が笑みを作った。
「村のこと、忘れちゃった?」
 記憶を探ると思いあたりがあった。あ、とつぶやいたまま何も言えなくなる。
 幼いときによく遊んだ友人だった。
 彼女が育ったのは、街からそれなりに近いさびれた村だ。稲刈りや田植えは当然のように助け合うものだった。下女として働く今よりも貧しい毎日だったが、不満はなかった。
(たえ)
「思い出してくれた?」
 手をとりあう。なめらかな肌触りだった。
「ひさかたぶりね」
「そりゃあそうよ。夏生が村を出て行って以来だから」
 日々が壊れたのは、彼女の両親が亡くなってからだった。両親は近しい血縁者を持たなかったため、一人で生きていかねばならなかった。しばらくは村の衆の力を借りながら暮らしていたが、限界は初めから見えていた。
 だから、下女として働く娘を求めているという話をきいて、さっそく名乗りをあげた。主人が異人だと知ったのは後からだ。
「聞いたよ、異人さんのところで下女をやってるんだって?」
「うん」
 妙は心配そうに顔を寄せた。
「大丈夫? ひどいことされてない?」
 ふっと苦笑が浮かぶ。こういうことを言われるのは珍しくもないし、慣れてしまっている。ほんの数十年前までこの国は閉ざされていたのだから当たり前の反応だとも思う。
 彼女自身、最初はわけもない嫌悪感があったのだから。
 ――でも、アルトドルファー様はそんな方じゃない。
「大丈夫よ。とってもいい人だから」
「そっか、よかった」
 丹念に化粧のほどこされた顔で、妙は笑った。華やかな姿はまだ見慣れなかったが、面影は残っている。
「ところで、どうしてそんな格好をしてるの?」
 その笑みがくもった。
「売られたの。今は異人さんと、ね」
「……そう」
 何も言えなかった。彼女も彼に雇われなければ、きっと同じことになっていたのだ。いや、彼に雇われたとしてもそうなっていたのかもしれない。
 彼女を彼に引き会わせた中年の女性は優しかったが、口さがなかった。
『乱暴をされてもじっとこらえるんだよ』
 その「乱暴」に含みがあることは重々わかっていた。
『うまくいけばいい思いができるんだからね』
 けれど彼は無体を働かなかった。とても丁寧に扱ってくれた。それはきっと、かなりまれなことなのだろう。
「あっ、もう行かなくちゃ」
 名残惜しかったが、引き止めることはできなかった。
「またね」
「うん」
 長いすそを揺らしながら妙は去っていく。遠ざかっていく背中の幸福を願うしかなかった。歩きだしながら、彼女は自らの幸運に思いをはせる。

 初めて彼に出会ったときのことはよく覚えている。
『ハジメマシテ』
 彼の片言のあいさつ、彼女よりもずっと大きな身長、異質な色彩、その全てが、ただ恐怖をさそった。
『ワタシ、ハインリヒ・アルトドルファー。アナタ、ナマエ?』
『夏生です』
『ナツ』
 彼は心得た、とばかりに笑う。異人さんも笑うんだ、という当たり前のことに初めて気づいた。
 改めて彼を見る。稲穂のような金髪、雲のように白い肌、空のように青い瞳。彼は、村にいたとき友人だった自然の彩りにあふれていた。それに気づくと、逆に懐かしくさえ感じられた。
 それでも最初は、彼に接したり夜になるのがこわかった。いつひどい目に遭わされるかとおびえていた。
 だが彼はやさしかった。お皿を割ってしまったときも一緒に破片を集めてくれた。彼女の料理を残さず食べてくれた。根気よく彼の母国語を教えてくれた。ぎこちない言葉で話しかけてくれた(彼女がある程度話せるようになった今はもう聞けないが)。
 ――そうして気がつけば、心は彼のものだった。
 そんなことが言えるはずがない。彼にとって、彼女はただの下女だ。親切にしてくれるのは、彼の母国では女性に優しくするのが当然のことだからで、深い意味などない。
 それに、身分が違いすぎる。
 彼は立派な家の子息だ。田舎育ちの彼女など、比べるべくもない。炊事や洗濯や掃除など、誰でも替えがきく。
 彼女はつんと痛くなった鼻をこすった。寒さのせいにするには、まだ早いようだった。


「おーい、飲み物」
「はい」
 瓶を抱えて呼んだ男のところへ走る。小太りの男性はほとんど出来上がっていて、顔が真っ赤だった。つんとする酒のにおいがただよっている。
「どうぞ」
 麦酒をそそぐと、その男は上機嫌で飲む。また別の客に呼ばれて、彼女は小走りで声の元に参ずる。それを何回か繰り返していると、さすがに疲れを覚えた。
 だが、ここで休んでいるわけにはいかない。なまけると彼に迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けたい。
『ナツ』
『アルトドルファー様』
 彼女の主人の隣には、この会の主役とも言えるアスカム氏が立っていた。顔が赤く、目がとろんとしている。ずいぶんの量をたしなんだらしい。
『大丈夫か』
 彼は彼女の変化にさとかった。疲労が出ていただろうかと、無理に笑顔をつくる。
『平気です』
『あと少しで終わる』
『わかりました』
 その言葉通り、数十分後にはその会はお開きになった。アスカム氏は泊まっていくので、まだちびちびと酒をあおっている。かなり上機嫌で声が大きい。その周りを片づけている彼女の耳にもその声は飛びこんでくる。大体の意味しか分からなかったが。
 彼は酔っ払いの繰り言につきあわされて迷惑顔だった。よく見ると彼自身も酔いが回っている。主催だということで、数人と乾杯していたことが思い出された。それでも正体は失っていない。
『片付けは明日でもいい』
 彼女はふるりと首を振った。彼の親切に甘えすぎてはいけない、と警告がひびく。
『もう少しで終わります』
『すまない』
『平気です』
 何度か部屋を出入りし、ようやく後始末が終わる。正確にはわからないが、普段なら眠っているころだろう。皿洗いがまだ残っているが、明日早めに起きて済ませればいい。
『終わりました』
『ご苦労。明日の朝食は遅めに頼む』
『はい』
 部屋を出ようとしたそのとき、アスカム氏が大声で言った。
『ハインリヒ、お前も国に帰るんだろ』
 振りかえり、固まってしまう。はっとした表情で彼女を見た彼と目があった。その態度が、この話が事実だと裏付けていた。
『そろそろ向こうの女が恋しいよな』
『黙れ』
 いつもより冷徹な口調で、彼がアスカム氏を制止する。何がおかしいのか、氏はガハハと笑った。それはこの場には全く不似合いだった。
 頭が重くなってふらついた。彼の精悍な顔に焦点があわなくなる。何も考えられず自室へと向かう。ロウソクを横切るたびに、影が現れ、後ずさっていく。それをぽっかりとからっぽな頭で見つめた。
 ――アルトドルファー様が、お国に帰られる。
 どうして今までそのことに気づかなかったのだろう。彼がこの国にやってきたのはあくまで仕事のためなのだ。用が済めば故国に帰るのは当然のことだ。
 彼が、いなくなる。この国から。彼女の世界から。
 それはあまりにも恐ろしく、直視しがたい現実だった。想像するだけでもつらい。今まで思いつかなかったのはそのせいかもしれない。だが気づいてしまった今、逃れる術はなかった。
 ――帰らないで。いつまでもこの国に。
 あさはかで自分本位な願いに吐き気を覚える。「彼にとってはただの下女だ」とお決まりの言葉を繰り返しても、いや、繰り返せば繰り返すほど想いは強くなっていく。
 自室に入っても着替える気力はなく、寝台にねそべる。敷布をつかみ、唇を噛みしめ、溢れそうな何かをこらえる。
 彼の姿が、声が、手の熱が、激しくもつれながら彼女を打った。こらえきれずに声をもらせば、涙が敷布にしみこむ。

『座りなさい』
 数日後、大事な話があるから、と彼の書斎に呼ばれた。半ば予想していたことではあったが、言われたときは身体が硬直した。
 客用の椅子をすすめられ、戸惑いながらも腰かける。彼はゆったりとした革張りの椅子に、当然といった表情で(もちろん彼のものなのだから当然なのだが)かけた。態度の差が、立場や育ちの差を痛感させる。
『落ち着いて聞いてほしい』
 彼の襟飾りの結び目を見つめながらうなずく。
『国に帰ることにした』
 予想通りの言葉だった。だが身体がどうしようもなく震える。目頭があつくなり、ぐっと息をのんだ。取り乱す姿を見せたくなかった。
『君はとてもよくしてくれた。感謝している』
 めったに聞けない彼の褒め言葉をきいても、彼女の心は晴れなかった。むしろ近づきつつある終焉を感じ、曇るばかりだ。
 彼の顔を見ることができない。自分がどんな顔なのか想像できなかった。
『あたらしい主人を望むのなら、紹介状を書く』
 ――なんて残酷な言葉だろう。
 彼女はあたらしい主など望んでいなかった。彼女が仕えたいのはただ一人だけだ。それを言えたらどんなにかいいだろう。
 けれど言えない。言えるはずがなかった。
 彼は主人、彼女は下女。彼は異人、彼女は国人。
 二重の壁を絶望の目で見る自らが見える気がした。
『何か希望はあるか』
 帰らないでください。ずっとこの国にいてください。
 独りよがりな言葉を飲みこんだ。彼に迷惑をかけ、困らせるだけだ。
『ありません』
 彼が少しの間だけでも目をそらしてくれればいい。その間に泣くことができれば、きっと破裂しそうな胸をすっきりさせることができる。
『私も、今までありがとうございました』
 月並みな言葉だ。だが、そこには万感の想いがこもっている。
 ぎこちない挨拶、何気ない気遣い、垣間見える優しさ、仕事への飽くなき追求、たまに見せる笑顔、手の平のぬくもり。
 思い出してみれば全てがうるわしく感じられた。なによりも尊く存在していた。どうしてそれだけで満足できないのだろう。
 決まっている。彼の全てを手に入れられたなら、それらをもっと上回るものを得られるからだ。自らの貪欲さにぞっとした。
『……一つ提案がある』
『なんでしょう』
 あくまで襟飾りを見つめながら言った。顔を見つめるにはまだ心の整理がつかなかった。
『君がよければ、でいいんだが』
 いつもはきはきとものを言う彼にしては歯切れが悪い。だが疑問を覚える余裕はなかった。予期しない分、次の衝撃は大きかった。
『一緒に来てほしい』
 思わず彼の顔を見てしまう。青の瞳がまっすぐに彼女を見ていた。その色は、気後れしてしまうほどに真摯だった。
 驚愕と困惑と歓喜が一緒くたにやってくる。彼の帰国を知ったときや、ついさっきまでとは違う涙が出そうになった。
『下女としてではなく、私の妻として、君を隣に置きたい』
 一瞬、恐怖に襲われた。
 こんなに幸せを感じてもいいのだろうか。この後には底なしの地獄が待っているのではないか。
 そう思ってしまうのも幸せだからこそ、ということに彼女は気づかない。とめどなく沸きだす感情を受け止め切れず、処遇に困るばかりだった。
『考えてみてほしい』
 彼の無骨とも言える手が、そっと、彼女のたおやかな手をつつむ。彼の目元は赤かったが、そのことに気づく余裕はなかった。
 ただ彼女は、何かに憑かれたように彼の瞳を見つめていた。その深淵に、自らの意志を探ろうとして。


*


 会話はなかった。彼も彼女も沈黙を保ったまま、粛々と手だけを動かし続けている。一箱いっぱいに本を詰め、ふと彼が時計を見ると、作業を始めてからかなりの時間が経っていた。
 どうりで背中が痛くなるはずだ、と彼は軽く伸びをする。
「ナツ」
 彼が声をかけると、彼女はびくりと緊張したようだった。あの話をしてからというもの、こんな様子で一挙一動に過剰なほどの反応を返すようになった。
「休憩しよう」
 はい、と小さな返事。立ち上がろうとする彼女を制した。
「休んでいろ。茶でも淹れてくる」
「私がします」
「いや、たまには自分でやらないとな」
 私がしますから、と粘られたが、なんとか説き伏せることに成功する。
 厨房に行き、揺れる炎を見ながら、彼も同じように揺れていた。
 ――ナツはどんな返事をするのだろう。
 彼の心は青い新芽のように伸びたが、ときおり、寒さにあてられた花のようにちぢこまる。相手の様子が気になる、という点では、彼も彼女と同じだった。
 彼女にはすでに言っていたが、国に帰る船のチケットの問題や手続きからいうと、そろそろ返事がほしいところだった。もっと早く返事がほしい気もしたし、もっと遅くほしい気もした。
 どっちつかずな感情にふりまわされて、疲れてきてもいた。待つだけの彼でさえそうなのだから、決める本人はもっと動揺していることだろう。
 やっと沸いた湯をポッドに注ぎながら、彼は彼女の態度から答えを推測しようとしてみた。だが、どうやっても彼自身の願望や不安が余計な覆いをかけてしまう。
 恋愛において「客観的」という言葉はないのだ。だから「恋は盲目」とまで言われるのだろう。
 自室に戻ると、彼女は荷造りに精を出していた。呆れたが、そんな彼女の勤勉さを好ましいと思ってしまう自分にも彼は呆れた。
 小さな机に椅子を寄せる。こうして二人で茶を飲むのは初めてだ。彼女は緊張しているようだった。それは彼もお互い様だった。
 慣れない手つきでカップに茶をそそぎ、無言で押しやる。今は故郷にあるネイサンなら、きっとうまい言葉で彼女の緊張をほぐすのだろう。彼は口下手な自分を疎んだ。
 茶を一口飲み、彼女はそっと息をつく。アイボリーの指先が、白磁のカップにとろけそうに綺麗だった。やはり白磁は東洋人の肌色にこそ合うのだ、と新しい発見をする。
「返事をきかせてくれ」
 言ってから後悔する。もっとくつろいだ雰囲気になってからがよかっただろうに、彼女を急かすような物言いをしてしまった。彼女の目に走るのは動揺だ。
 花のような色の爪で飾られた指が震えていた。噛みしめている唇からは色が失われている。
 何も言えないとわかっていながらも彼が口を開いたそのとき、場違いなほどに大きくドアベルが鳴った。腰を浮かせる彼女の肩を押して座らせる。
「俺が行く」
 今度は抵抗がなかった。すみません、とつぶやいて彼女は目を伏せる。手にしたカップの水面は波立っていた。
 タイミングの悪い客は写真館からの者だった。数週間前、滞在の記念に撮影したものができあがったので運んできたのだ。そういえば彼女の分は断られたことが思い出されて、心に暗雲が立ちこめる。
 写真の入った袋を持って自室に戻る。振り返らない彼女の背は細く、華奢だった。この国の者が春に愛でる花のように、吹雪となって散ってしまいそうだ。
 そんなはずがない、と打ち消して、つとめて明るい声を出す。
「写真だ。見るか」
 手にした袋を示す。はい、という返事を聞いて取り出した。
 白黒の写真の中で、彼らはそこにいた。彼女は椅子に座り、かすかな笑みをうかべている。彼はその椅子の隣に立ち、よく言えばきりっとした、悪く言えば仏頂面だった。
 彼女は興味深げにしげしげと眺めている。写真を撮るのは初めてだと言っていた。「命を取られる」など、彼の感覚では理解しがたいことも言っていたが、それでも出来上がりを見るのは楽しいらしい。
 ほころんだ唇をじっと見つめていた自身に気づき、彼はあわてて目をそらした。
「その写真は君にあげよう」
 彼女の視線を感じる。動悸を収めきれずに彼女に向いた。
「ときどきは俺を思い出してほしい」
 彼女は写真と彼を見比べた。彼もじっと写真の中の彼女を見つめる。
 惜しくなどなかった。形には残らなくとも、彼の心の中に、この可憐な笑みは彫りこまれたのだから。綺麗なまま残しておくのなら、むしろ手元にない方がいいのかもしれない。
「……受け取れません」
 視界が明滅する。
 一気に深い穴につき落とされたような気分だった。頭が理解を拒んでいる。
 呆然としたまま問いかけた。
「どうして」
 彼女はまっすぐに彼を見た。黒い瞳にはしっかりとした意志の光が宿っている。
「私は、アルトドルファー様の隣でこれを見たいのです」
 何を言われたのか分からずに頭が真っ白になる。
 ようやく理解できたとき、彼女を腕に閉じこめていた。戸惑う声すら愛おしく甘く胸に響く。力の加減もできずに、ただ衝動のまま抱きしめる。少しでもゆるめると、この感情が逃げてしまいそうだった。
 いっそこのまま二人がくっついてしまえばいい。いや、それでも満足できない。
「アルトドルファー様、痛いです」
 苦しそうな声に、あわてて力をゆるめる。消えてしまわないことにほっとした。腕の中の温もりがあんなに焦がれた彼女のものだと信じられない。
「ナツ……ナツ」
 何度も名を呼ぶ。応える声が無性に嬉しかった。力強く抱いてしまいそうな自らをなんとか抑える。
「アルトドルファー様」
「『ハインリヒ』がいい」
 しばらくの間の後に、ハインリヒ、と鈴のような響き。彼女が口にしただけで、まるで聖人の名前のようだった。
「Ich liebe dich」
 愛している。そうささやくと、彼女は震えた。
「Ich auch」
 私もです、と涙まじりの返事がやってくる。彼女の手が彼の服にすがりついた。
『私はあなたを、愛しています』
 続けて彼女の母国語で言うと、腕の中で彼女はうなずいた。ますます震えが大きくなる。
 ――彼女が落ち着いたら。
 まずは写真を入れる額について話し合おう、と思うのだった。
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Copyright © 2009 Fumina Tanehara. All rights reserved.
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後書き(反転してご覧ください)
   両片想いが書きたい→身分差も入れたい→男を外国人にしよう→時代は昔にしよう、と思いつきで書いた話です。ミスがありましたらツッコんでください。ちなみにネイサンは英と独のハーフです。
   時間軸的には男性視点1→女性視点→最初の写真館→男性視点2となっています。
   恋愛モノって、なぜか、書けば書くほど心情に説得力がなくなっていく気がします。理屈くさくなるというか。精進あるのみ、ですかね。←ここまで
公開 : 2009.04.01