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ココアとレモネード

 風がやけに涼しいとおもえば、雨がふっていたかららしい。確かに朝からずっとくもっていたのだからふって当然だ。窓から一番近いところにある樹木の葉の緑が目にあざやかだった。葉の一枚一枚が雨をうけとめて、たえられなくなったところで雫をおとす。
 いつものようにぬれてかえろう。洗濯物がほしっぱなしだからとりこもう。そのあと、舌が火傷しそうな程あついココアをいれて、冷たい身体をあたためよう。
 今日こそはあの味にちかづいていればいい。あの、あまくてやわらかくてやさしくてあたたかい味に、少しでも。

 うれしいことに、雨は放課後になってもふりつづいていた。おかげでココアの計画がつぶれないですむ。雨の日の、水臭さと冷たさの中でのむ、甘さと熱さをそなえたココアは何もないときにのむココアとは全然ちがう。私にはすきなものがいくつかあるけれど、その中の一つに雨の日がある。薄めにとかしたココアに、ミルクをほんの少し、味をかえない程度にいれる。雨の日のココアはそんな感じだけれど、冬の朝のココアはベタベタに甘くする。濃いめにとかして、ミルクはなし。
 それをきいた人が大体最初にいうのは、わかんない、なのだ。曰く、何でココアなの、紅茶じゃだめなの、そんなにあつくして舌大丈夫なの、等々。
 いいわすれたけれど、私には雨の日のこだわりがもう一つある。それは、傘をささないこと。学校から家までぬれてかえって、洗濯物がほしっぱなしだったら洗濯物をとりこんで、やかんに水をいれて火にかけてからやっとぬれた制服をきがえる。キレイにはぬがない。映画とかドラマとかのベットシーン直後のようにぬぎちらかしてきがえる。ココアで充分に身体があつくなってから、制服をかわかすなりあらうなりすることにしている。始めたのが最近だからかもしれないけれど、風邪をしたことがないからふしぎだ。ただ単に、私が頑丈だからかもしれない。
 だからって勘違いしないでほしい。私だって雨にぬれるのはすきじゃない。むしろ、洗濯物がふえてしまうからきらいだ。だけど、雨の日は必ずぬれてかえることにしている。きらいだけれど、したくてたまらないからだ。それに、そうじゃないとココアの熱さが身体にしみない。例えるなら、氷水をたっぷりすったスポンジを鍋であたためて熱いスポンジをつくっているのだ。こういうとなんだかムダな感じがするけれど、そこがまたいいのだ。
 雨はまだふっている。さわさわ、注意してきかないとわからないくらい静かにうたいながら私をよんでいる、気がする。おいで、はやくおいで、おいていっちゃうよ、だからほら、はやく、と微笑みながらささやきながらうたいながら私を手招いている。まって、今いくからおいていかないで、わかっているから、まって、心の中で返事をする。
 雨の日は私にとっては特別な日で、そしてとてもかなしい日だ。校庭に色とりどりの傘の花がさいていく。やすむことをしらない雨が窓をやわらかくたたく。雨のやさしいなつかしい香りがする。
 ねぇ、今いくよ、だからまっていてね、お願い、心の中でつぶやいた。

 雨の音がする。水の音に似ているけれどちがう、雨独特の音がする。雨の歌がきこえる。小さいけれど、きれいでよくひびく雨の声は耳にやさしい。
 ぬれてかえるとき、私はいつも以上にゆっくりあるく。髪が雨をすって、雫がぽたぽたたれる。スカートに雨の模様ができる。冷酷な一面をもつ雨は私の体温を容赦遠慮なくうばっていく。朝はいてきたのはローファーの革靴だったけれど、学校で雨の日専用の靴にはきかえた。雨の日専用の靴は黒い。理由は特にないけれど、強いていうなら、買ったときにとても安かったからだ。
 雨はいつだって心地がいい。私のことを拒んだり認めてくれなかったりなんて絶対にしない。私のことを受けいれて認めてくれて、すっぽりつつんでくれる。そしてやさしいのだ、泣いてしまいそうなほどに。雨は神様の涙なのだと誰かが教えてくれたとき、うれしかった。本当にその通りだって、心の底からおもえてしかたなかったから。
 ねぇ、どうしてそんなにやさしいの、私のことを解ってくれるの、私とってもうれしいの、だからいつも泣いてしまうのよ。そんなことを雨にかたりかける。そのときの雨は、ことさらにやさしい。
「――傘、わすれたのか?」「えっ?」
 突然声をかけられて、本当におどろいた。さっきまでかんがえていたこと全てが頭からすっぽぬけてしまうほどおどろいた。声は私の前方右斜めからで、私の高校の制服をきている男の人がそこにいた。顔はどこかでみた気がするけれど、名前がでてこない。
 私はいつもそうだ。たとえば誰かが私に告白してきたとしても、次の日になったら顔も名前もおぼえていない。ヘタすると告白してきたことさえもわすれているかもしれない。人間としてまずい。
「神奈木史乃、だよな? うちのクラスの」
 私のおどろきぶりに相手もびっくりしたらしく、どこか不安そうに氏名をたしかめられる。たしかに私は神奈木史乃だ。だけど同じクラスかどうかはおもいだせない。どう返事をしたらいいのかにこまってしまって、じっと、バカみたいに目の前の顔をみつめる。
「えっと、俺は那須田真人だけど……神奈木とおなじ二年二組の」
 それならきっと、私たちはクラスメイトなのだろう。ほっとしてうなずくと、那須田くんもほっとしたように息をついて、さしているスカイブルーの傘から顔をのぞかせた。
 何度もみても、はっきりと自信をもってクラスメイトといえない。いつもそうだ。少し前から、私には自信をもってできることがなくなった。それはかなしくてつらい。
「ぬれてるけど、傘、わすれたのか?」
 首をふる。別にわすれたんじゃない。ぬれたかったからで、そもそも私は傘をもっていない。必要がないから当然だ。登校時に雨がふっているときは「神奈木のおじさん」が車で学校までおくってくれる。でも事情をしらない那須田くんは変な顔をした。
「誰かに貸したとか?」
 それにも首をふる。貸せる筈がないし、貸す相手もいない。
「じゃあなんでだよ?」
 那須田くんの声がイライラしている。なんだかこわくて、早足でうちにむかう。はやくほしっぱなしの洗濯物をとりこんで水をいれたやかんを火にかけてぬぎちらかしてきがえて舌を火傷する程熱いココアがのみたい。今は那須田くんとはなしたくない。
「オイ、神奈木!」
 はやくかえりたい。早足がほとんどはしるのとおなじ速さになる。足元で雨がばしゃばしゃなる。那須田くんがついてくる。どうしてついてくるのだろう。
 ほうっておいてほしかった。イライラしないでほしかった。怖がらせないでほしかった。私は何もしていないのに。
「ちょっとまてって!」
 手首をつかまれてひっぱられる。ひっぱり返したけれど、全然意味がなかった。男の子の力って尋常じゃない。それにもびっくりしたけれど、手がとてもあつかったことにはもっとびっくりした。まるでココアみたいな熱さ。那須田くんはおこった顔ををしていた。
「なんでにげるんだよ?」
 首をふる。何度もふる。何をいいたいのかなんて、私にもわからない。
「俺のことこわいからにげるのか? なんでだかハッキリいえよ!」
 那須田くんの声は私の身体をうつ。こわい。雨のやさしさが嘘みたい。雨はこんなにやさしいけれど、目の前にあるのはそれをこわすこわいもの。どうして私はここにいるの。
 傘をさした人たちが私と那須田くんの周りをとおりすぎていく。十人中七人は野次馬根性でちらちらと視線をおくってくる。すごくいやだ。どうして私なの。
「……」
「なんだよ、もっとおおきな声でいえよ!」
「はなして!」
 私の手は那須田くんがにぎっている。つまり那須田くんがたおれれば私も、運命共同体で一緒にたおれる。そういうことにきづいたのは、足払いをかけてしまった直後だった。

 那須田くんは、さっきからむっつりとだまりこんでいる。まだおこっているのだろうか。背中を向けてしまった私には判らない。
「なぁ、イマサラだけど」
 ふりかえると、那須田くんは最初にわたしたタオルを首にかけていた。おかげで、目のやり場にこまらずにすんだ。むしろ、こまっているのは那須田くんの方だ。
「その、女の子一人の家に男あげて親にしかられないか? 神奈木の親にこんなカッコでいるのみられたら、確実に半殺しにされそう」
 そんなことを気にしていたらしい。ただのとりこし苦労だ。那須田くんに遠慮して、一応こっそりとわらう。
「されないよ。私、親、いないの」
 那須田くんがおどろいたように息をのんだ。それを意図的に無視する。もうなれっこだ。
 今時めずらしい、お湯が沸くと鳴るタイプのこのヤカンはお母さんのお気に入りだった。お父さんは時々、うるさいから買い替えろと文句をいったけれど、それでもお母さんはそうはしなかった。
 ヤカンの音を気にするのは、もう、私しかいない。ヤカンの代替わりはもうありえない。私一人が目をつぶればいいだけなのだ。それだけで、私は想い出をなくさない。
「……死んだのか?」
「そうだよ。一年のとき」
 ピーッ。警告音のようにヤカンが喚く。あらかじめココアの粉末をいれたマグカップにお湯をそそごうとして、その前に、
「ココア、すき?」
 那須田くんの分もいれようとおもった。お湯よりもヤカンの金属の方が熱いから、かたむけるとお湯が蒸発するすごい音がする。
「え? ……別に、きらいではないけど」
 もう一つのマグカップにココアの粉をいれる。二つにお湯をおなじくらいいれて、ミルクをほんのちょっといれる。スプーンでかきまぜると、あまくてやわらかい香り。こんな感じがとてもすき、つつまれるみたいで。
 那須田くんにココアをわたすと、ぼそぼそとお礼をいわれた。どういたしましての代わりに、すごく熱いよ、とつたえる。もし猫舌なら、絶対今はのまないでね、ともいうと、那須田くんは警戒するようにマグカップをみた。ひょっとすると猫舌なのかも。
 その間に私は、那須田くんの斜向かいにすわって、猫舌の人でも大丈夫な程ココアがさめるまで、先にココアをのんでまつ。ココアが血液になって、全身をめぐっていく。指先がどんどんあつくなる。ふーっと息をはいてすうと、さざめきがおこる。
「那須田くんは」
「真人でいい。そっちは慣れない」
「……真人くんは、猫舌なの?」
 男の子の下の名前をよぶのはなぜかドキドキした。変なの、それだけなのに。
「俺のお袋の一族はみんなそうなんだよ。だから正月の集まりでも雑煮じゃなくて、そうめんくったりする。普通だとおもってた」
 一瞬想像してしまった。年明け番組をみながらそうめん。……なんだかおかしい。真人くんはココアをちょっぴりのんでみたけれど、熱くてダメだったらしい、またおきなおした。
「いっつもこんなあついココアなのか?」
「雨でぬれてかえってくるときにはね。その時にしかつくらない」
「……いつもぬれてかえるのか?」
 真人くんは不思議そうに私をみている。マグカップを両手の間にはさんでにぎりしめると、ココアの熱さがじんわりとしみる。
「うん。いつもね、雨の日の帰りはわざとぬれて、それでとても熱いココアをいれるの。だから傘はないの」
「ふぅん……」
 真人くんがココアをのんでいる間はとてもしずかで、はなれたところにある洗濯機の音がきこえた。私と真人くんの、ドロドロの制服が一緒くたになってあらわれている。
 あと一時間くらいしたら、真人くんの弟さんが着替えをもってきてくれるから、その時に真人くんはあらった制服をもちかえる。ここにむかう途中でそう話はきまった。真人くんの弟さんは中学三年で、ケイジくん(漢字はわからない)というのだそうだ。
「……なんで死んだんだ? 親」
「自動車事故。去年の梅雨。夫婦だけでドライブ中にね、雨で視界最悪でしかもすりへったタイヤがスリップして崖からおちて……。即死だったらしいの。それがまだ救い。つまり、苦しまないで死ねたってことだから」
「それからずっと一人?」
 まさか、と首をふる。かんがえてみれば、最初からずっと大人が色々てつだってくれた。そういえば、あと一ヶ月くらいで一年忌だ。
「私ね、伯母さんにひきとられたの」
「じゃあ神奈木って名前、本当はちがう?」
「うん、旧姓は石黒。でね、その伯母さんはこのアパートの大家をしているんだけど、ここにおいでっていってくれて。もちろん家賃はタダ同然でいいからって。やさしいの」
 伯母さんはとてもやさしい。伯母さんの旦那さんの「神奈木さん」は雨がふっている日は車でおくってくれる。護身用の足払いをおしえてくれたのも、「神奈木さん」だ。
 真人くんはココアをのんだ。ちょうどいい熱さだったらしく、また一口のむ。なんとなく窓の外をみると、まだ雨がふっていた。窓ごしだと、音も何もしない。ニセモノみたい。
 私が今ここにいて真人くんとココアなんかをのんじゃっていたりすることも、お母さんとお父さんが死んでしまったことも、本当で現実なのに。一瞬、何もかも嘘みたいだった。
「ココア、は」
 でもこれは現実で、嘘じゃない。私も真人くんもここにいる。ココアをのんでいる。
「ココア、は、想い出なのか?」
「……うん。私が幼稚園生くらいのときに、土砂降りでかえってきたときにお母さんがいれてくれたの。それが最初」
 どんなにがんばっても、お母さんのココアの味にはちかづけない。私のよりもっと、あまくてやわらかくてあたたかい味なのに。ちかづいたとおもっても、まだとおい。
「小学生の頃はね、わざとぬれてかえってきたの。お母さんにすごくしかられるんだけど、でも、ココアをいれてもらえるから。おこられるとこわかったけど、ココアはうれしくて」
 マグカップの底に、とけのこったココアがこびりついている。流しでマグカップをすすぐ。水がつめたい。
「そういうの、わかる。風邪ひくとお袋がレモネードつくってくれて、俺、それがすきだった。わざと風邪ひこうとして、お袋と親父にどなられたり、ケイジが風邪のときにこっそりとってまたおこられたり」
 真人くんがてれたようにわらう。やさしい笑い方をする人。お父さんに似ている。
「でも、もうムリなんだ」
「……どうして?」
 真人くんの笑顔に影がかかる。きいてはいけなかったのかもしれない。でも、いってしまった言葉は二度と、口にはもどらない。
「もちろん、俺がデカくなったっていうのもあるんだけど。でも」
 真人くんはココアをのんだ。音がでて、真人くんは小さい声であやまった。
「親父が浮気してたんだ。お袋はしっててずっと我慢してたらしいんだけど、ついにプッツンして、新学期がはじまる前に離婚した」
 ……それはつらい。きっとケンカとかがくりかえされていただろう。私の親はとても仲がよかったから、家族が崩壊する心配なんかいらなかった。真人くんの環境は理解できても、心境は理解できない。経験がないから。
「ケイジはさ、受験生だし金かかるのはこれからってことで親父側にひきとられたんだ。でも俺は長男だし高校生だし、お袋が精神的にキツいだろうってことで、お袋の方にひきとられたんだ」
「……」
「お袋、専業主婦だったのにパートはじめたんだ。俺も学校に秘密でバイトしてる。お袋、今は自分のことで精一杯って感じだからきっと、俺が風邪してもかまってられないだろうな。だからもう、レモネードは無理なんだ」
 なんだか似ている、とおもった。私と真人くんは、似ている。真人くんのご両親は生きているけれど、私の親は仲がよかったけれど。
 でも、それでも、似ている。
「ま、だからさ、俺、『那須田』なんて呼ばれるの、なれてないんだ。お袋の旧姓だから。神奈木……は、どっちがいい?」
「神奈木でも史乃でも、どっちでもいいよ」
「史乃もさ、最初は『神奈木』っていうの、なれなかっただろ?」
「そう、だね。最初の頃は苗字でよばれてきづかなかったりしたよ」
 ドキドキした。下の名前を同年代の男の子に呼び捨てにされるなんて、すごくひさしぶりだ。自分の名前なのに、他の人のような感じがする。不思議で奇妙で、新鮮だ。
 そんなことをおもっていたら、真人くんが空っぽのマグカップをテーブルにおいた。のみおわったらしい。かたづけようとおもって手をのばしかけた時だった。
「なんか、変なの」
 真人くんが突然いった。
「レモネードとか離婚とか人にはなしたことなんてなかったのに。結構仲いいヤツにもないのに……なんで史乃にははなしてんだろ」
「……私も、ココアのこと、人にはなしたことなんてなかったよ。誰にも、いわなかった。真人くんが、最初だよ」
 こんな気持ちも、そういえばはじめてだ。何かしたりされたりする度にドキドキしたりする、こんな気持ち。
「俺今、はじめて明日の学校がたのしみだとか、おもった」
「え?」
 真人くんの顔がだんだんあかくなってくのがみえる。どうしたんだろう。
「……私も、明日の学校がたのしみだよ」
 正しくは、「明日の学校で真人くんとあうこと」がたのしみだったのだけれど、それはいわない。心の中にしまっておく。
「また、真人くんとはなしたいな」
「明日、はなせるよ。……史乃が俺のことおぼえてれば、の話だけど」
「おぼえてるよ、絶対」
「俺のこと、本当にクラスメイトかわかんなかったのに?」
 言葉につまった私を真人くんがわらう。そんなことにもドキドキする。
「おぼえてる」
 そういえば、これもはじめて。
 人をおぼえるのが全然ダメな私が、誰かのことを絶対にわすれないって、自信をもっていえること。
 不思議。でもきっと、これからはそんなことの連続になるんだって、自信がもてた。
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後書き(反転してご覧ください)
   某地元新聞のコンクールに応募したら(一番下の)優良賞をもらった作品。最初のタイトルは『雨とココアと少女と少年』(そのまんま)。
   主人公の名前、史乃の読み方は実は決まっていません。←ここまで
公開 : 2005.12.17