夕陽と、二人。


 部屋の中は静かだった。本のページが時折めくられる音と、時計の秒針の音をのぞけば。道路に面した窓は全開だけれど、交通量が多くない上に帰宅ラッシュには早いから、ご近所の人の声や足音、犬やらネコやらの鳴き声、それと西日しか入ってこない。
 また、本のページがめくられた。次にこの音を聞けるのは、三十秒を切るか切らないかくらいのあと。そんなに読むの早くて、本当に内容頭に入ってるの?
「手がお留守になってるぞ」
 どうして、本を読みながらそんなことがわかるんだろ。一度も本から顔をあげてないのに。
「勉強しないなら俺、帰るからな」
「……だぁって」
 もっていただけで全然動かしていなかったシャーペンを机におく。机の上にはシャーペンのほかに、消しゴムとかの筆記具、真っ白のノート、意味不明な数式でびっちり真っ黒な問題集がある。見てのとおり、私は勉強中だ。見た目だけは。
「『だって』なんだよ」
「せっかく一緒にいるのに勉強なんて。おまけに私なんてほったらかしで本なんて読まれちゃ」
 政明(まさあき)ちゃんは縁なしの眼鏡の奥から私を見つめてきた。しばらくにらめっこになって、ため息の後に本をしまった。
「わかったよ、歌乃(かの)を教えるのに集中するから」
「私が一番不満なのは一緒にいるのに勉強なんてしてること!」
「勉強がしたくないなら何がしたいんだよ?」
 政明ちゃんが眼鏡を外して問いかける。政明ちゃんはすごく目が悪くて小学生のときから眼鏡をかけてるけど、たまに外すことがある。それは政明ちゃんがすごく困っているサインだ。困っているときはものがはっきり見えすぎると邪魔だから、わざとはっきり見えなくして集中するんだって、前に言ってた。
「歌乃には勉強に集中してほしいんだけどな」
 そう言う政明ちゃんの手がのびてきた。顔にかかっている私の髪を指先でかき寄せて、耳に引っかける。それだけなのに、ふれられたところが熱くなった。どうしてだか身体がすくんでしまう。
「歌乃」
「なぁに」
「顔、真っ赤」
「……みえないでしょ」
 そうは言ったけど、きっと当たってる。
 政明ちゃんが顔を近づける。政明ちゃんが眼鏡なしでものをはっきり見れて、お互いの息づかいをはっきりと感じ取れる距離だ。隠しようがない。西日のせいだとか言って、ごまかせない。
「やっぱり、赤いよ」
「政明ちゃんのイジワルっ」
 間近な政明ちゃんの顔は、おかしそうにゆるんでいた。もう、とつぶやいて、ひたいとひたいを軽くぶつける。
「政明ちゃん、大人気ない。高三の受験生でしょ」
「高三の受験生が高一の新入生の勉強をみてるのは、褒められるべきことじゃないか?」
「私は勉強なんてみてほしくない」
 唇をとがらせて言うと、政明ちゃんは苦笑して私の頭をぽんぽん軽くたたいた。
「仕方ない、どっか行くか? このまま勉強してても、らちがあかないし」
「うん」
 うなずいたら、ふいに名前をよばれた。
「歌乃」
 政明ちゃんの腕が私の肩と腰にまわって、強く二重に引きよせられた次の一秒は。
「んんっ」
 政明ちゃんと私の唇がふれあう。反射的に目をつぶる。思わず高くて鼻にこもった声がもれたのが恥ずかしくて、もっと強く目をつぶってしまう。
 このままじゃ心臓が壊れる。痛いくらいに速い鼓動が私の一部なんて信じられない。なんかもういっぱいいっぱいで、どうにかなりそう。背中が感電したみたいにしびれて、政明ちゃんの肩をつかむ。
 ゆっくりと唇が離れた。あえぐように空気を求める。キスしているときは無意識に息をとめてしまう。鼻呼吸できるようになるには、きっとまだまだ時間がかかる。まだ暴れている心臓の落ちつかせ方さえ全然わからないのに。
「本当にイジワル」
「自分のこと?」
「政明ちゃんのこと!」
 政明ちゃんの指が私の頬をなぞる。こそばゆいけどちょっぴり嬉しい、そんな幸せにひたっていたら、とつぜん、頬がむにっとやわらかにつねられた。
「な、なに!?」
「いつになったら政明『ちゃん』ってのやめてくれるんだ?」
「あ、それは」
 おそるおそる目をあわせると、怒っているような目と出会った。
「ごめんね、つい無意識で『政明ちゃん』って呼んじゃうの。なんていうか、これはもうクセというより習慣で」
 だって、ずっと小さいころから政明ちゃんは『政明ちゃん』だったから。こうしてキスするようになっても、やっぱり政明ちゃんは『政明ちゃん』だ。
「ま、仕方ないかな」
 ため息をついたと思えば、急にわらいだした。外していた眼鏡をまたかけて、私の頬に軽くキスを落とす。唇にだとわからないけど、頬にだと唇のやわらかさがよくわかる。
「今は無理でも、その内『政明』を『政明ちゃん』より多くしてやる。まだ先は長いからな」
「うん」
 微笑んで、うなずいた。無理じいしない政明ちゃんの優しさがとってもあたたかかった。
 だから、すきなの。政明ちゃんのこと、大すきなの。

「じゃあ、行こうか」
「わかった」
 一緒に階段をおりて家の外に出る。くれなずむ空が私たちを出迎えた。鍵をしめてる間に政明ちゃんが自転車をもってくる。タオルが巻かれている後部座席にいつものとおり横座りする。
 背中につかまったら、自転車がゆっくりと発進した。下り坂で段々スピードがついて、景色が色の塊になって後ろに流れていく。
「カーブだから、つかまれよ」
 返事の代わりに、腰に腕をまわしてしがみつく。カーブをまがると大きな道路にでた。人をうまくよけながら自転車は進んでいく。
 私の頬と政明ちゃんの背中がシャツ越しにふれあう。視界いっぱいの政明ちゃんの背中はひろくて大きいのに、視界の端にある私の肩は小さい。
 自転車はどこに向かっているんだろう。もしかしたら政明ちゃんも知らないのかもしれない。でもどこに向かっているのだとしても、一緒なら平気だ。
 少しずつ夕陽の朱に染まる空と街並みを見つめながら、私は政明ちゃんの腰にますます強くしがみついた。少しの不安と幸せとを抱えて。


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