「また、あおうね」
その、一度きりの約束のために私はやってきた。やっとの思いで入学した高校の制服をまとって、十年前の小さな約束のために。そして何よりも私自身のために。初めてそでを通した制服からの真新しい匂いと、桜のあわい香りがない交ぜになって鼻をくすぐる。
腕につけた二つの時計をみると、すこし早めの時間だった。ちょっと見だと二つの時計は全くおなじようにみえるけど、よくみるとちがう。一つはピカピカの新品だけど、もう一つは年月をかさねてそれなりに気品をただよわせている。あの人に出会ってからの十年に想いをはせて、私は新品はつけたままでもう片方の古い方は腕からはずしてポケットにしまった。
小学校二年生まで、私はこの街の住人だった。当時の家とこの高校はかなり近くて、休みにはよく遊びにいった。部活をしているお兄さんとかお姉さんの何人かは顔見知りで、部活がおわった後に相手をしてくれたりアメ玉をくれたりした。
無条件に、ただなんとなく、私はこの高校に入学するのだとおもっていた。
親から突然の引越しをつげられたその時の私の気持ちは、とても言葉にできない。ショックなんてもんじゃなかった。自分の甘さをつくづく思い知らされた。
そして最後の別れに、とここに来たときに、私はあの人にであったのだ。
『久しぶり』
そう、あの人は言った。ながい黒髪と新しい匂いのする制服はやけにマッチしていた。
『おねえさん、だれ?しらない人なのにどうして“ひさしぶり”なの?』
(今おもうと失礼だけど)私がそういうと、あの人は苦笑した。
『お姉さんにとっては“久しぶり”なんだけど、舞花ちゃんにしたら“初めまして”かな』
名前をよばれて、本当なんだろうなってみとめるしかなかった。言われたことは完全に理解はできなかったけど。ちょっと考えこんでしまった私に目線をあわせるように彼女はかがんだ。なぜか、すごくなつかしそうに私をみている。
『休みなのにくるなんて、この高校にいきたいの?』
『うううん。おひっこしするから、いけないよ』
『そっか、残念だね。でも行けるよ。必ず』
『そうかなぁ』
うん、とうなずかれた。彼女は信じているのではない。確信しているのだ。どうしてそんなに確信できるのだろうと首をかしげていると、やわらかい春風がふいた。あの人の髪がなびく。ゆったりと髪をおさえる彼女の手首に、私はくぎづけになった。
シンプルなデザインの時計がそこにはあった。買ってから数日も経っていなさそうだ。秒針がいそがしく働いている。理由はわからないけど、どうしようもなくひきつかられた。私の様子に気づいて、彼女は時計をはずして私にみせてくれた。
『気にいった?』
その質問に、私は素直にうなずいた。どうしようもなくひきつけられる感じは、とても「気にいった」なんかじゃ片づけられそうもなかったけど。
『じゃああげる。この高校に絶対入学できるお守り』
『ダメだよ!これはおねえさんの、すっごくだいじなものなんでしょ!?』
『そんなに言うんだったら、あげるんじゃなくて貸すわ』
「借りちゃダメ」という言葉と「借りちゃえ」という言葉が私の中でぶつかりあう。どうしたらいいのかわからずにためらう私の頭をおいてけぼりにして、あの人は話をすすめていく。
『もしここに入学できたら、その時計はあげるわ。それまでは貸してあげる』
『わたしがこの高校にいけたら、またあえるの?』
もちろん、というあの人のほほえみが未だにわすれられない。
『また、あおうね』
さぁ、もうすぐ時間だ。ガラスに姿をうつして、ながい髪をととのえる。せっかくの十年ごしの再会は用意万端でいかなくちゃ。
もう一度時計をみる。この時計は両親が入学祝いということで奮発してくれたものだ。未練がないっていえばそりゃあウソになるけど、大丈夫だろう。私には十年という歳月を共にすごしてくれたあの時計があるんだから。
春風がふいて、桜の木をゆすった。舞い散る花びらの向こうから、小さな人影がやってくる。最初にかける言葉はもう、とっくの昔にきまっていた。
「久しぶり」
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