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飛び立つ蝶

 あたしはベンチに腰掛け、二本目の煙草に火を点けながら、見るともなしに花壇を眺めていた。婦長さんが教えてくれた病院自慢の花壇には、バラやガザニア、マーガレットなどが咲き誇っている。
 あげは蝶がひらひらと花から花へ飛んでいるのが、ふと目に留まった。蝶もこの日差しの暖かさが分るのだろうか?

 病棟から中庭に続くドアが突然開き、白衣を着た医師が出てきた。あたしの処置をしてくれた井上先生だ。隣に座った先生は、自分も煙草を取り出した。

 あたしの歳を知ってるのに何にも言わないんだ。先生は病室の回診の時も、あたしを咎めることもないし、何かを訊くこともない。
 もの静かな先生は、あたしの左手首に巻かれた包帯に視線を送り、煙草の煙と一緒に言葉を発した。
「人生はね、意味なんてないんだ。生きてる時はね。だから、頑張らなくてもいい」

 先生が煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がるのと同時に、蜜を吸っていた花からあげは蝶が飛び立った。

作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : シリアス | コメント : 陽だまりの中庭にて
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約束

「大丈夫か!」
 お父さんがかけ寄ってきて、転んだままのぼくを抱き起こしてくれた。

 一生懸命こいでたんだ。そしたら、いつの間にか空き地の端っこまで来てて、止まらなきゃって思ったら、もうブロック塀に当たっちゃってたんだ。
 ひざ小僧からたくさん血が出てる。

「ちょっとここで待ってろ。薬取ってくる」
 お父さんはブロック塀をひょいと飛び越えて、家の中へ走っていった。

 救急箱をもって戻ってきたお父さんは、消毒してガーゼをあてると、上から包帯できゅっと縛ってくれた。
「これでよし」
 ぼくはうなずいた。
「でも、乗れたじゃないか。自転車。あとは走り出す時と止まる時のバランスだな」
 ぼくはまた、うなずいた。
「どうした?」
 お父さんはぼくの頭をぐしゃっとなでた。
「よし、今日の晩ごはんはからあげにしよう」
「うん」やっと声にだして言った。

 ぼくはがまんしてたんだ。泣くのを。だって約束したんだもの。天国のお母さんと。男の子は泣かないって。

作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : 現代 | コメント : 父と息子の日曜日
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ローズガーデン

「向こう側のお花にはお水あげたんですか?」
「あ、はい、これからあげます」
 新入りの私は、この見渡す限り続くバラ園に水を撒くことを仕事として与えられた。気が遠くなりそうだ。撒いても撒いても終わる事はないように思えた。しかも、指導してくれる先輩の野口さんの話しでは、ここのバラは、ずーっと咲いたまま枯れる事がないらしい。

 そういえば、どうして野口さんは体中が包帯だらけなんだろう? 私は隣で作業している野口さんのほうを盗み見た。
 いけない、いけない。私は他人の事を詮索しすぎて、それで失敗したから、ここに来る事になったんだった。作業に集中しなきゃ。

 まだ休憩時間は来ないのかしらと思って空を見上げると、さっきからちっとも太陽の位置が変わっていない気がした。もう随分長い間水を撒き続けていたが、おかしな事にお腹も空いていない。なぜだろう? さらに疑問が湧いてきた。極楽浄土ってハスの花が咲いてるんじゃなかったかな?

作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : その他 | コメント : 桐野夏生さんタイトルパクリです
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水晶

 私はメモを片手に、古臭い日暮れの裏通りを探し歩いていた。人気のない忘れ去られた商店など、終戦後の町に迷い込んだかのような風情だ。
 遠くにぼんやりと行燈の灯りが見えた。きっとあそこだ。

 それは、傾きかけたバラックだった。継ぎ接ぎだらけの壁は傷痍軍人の頭に巻かれた包帯のように禍禍しく、灯りが灯っているのが不思議なくらいくたびれた家だった。しかし、行燈には確かに占いとある。
 私は意を決して引き戸を開けた。

「御免下さい」
 入ると、老婆が独り椅子の上に正座して居る。
「掛けなされ」
 私は老婆と差し向いに、木目の浮き出た机を挟んで椅子に座った。
「田中さんの紹介です……」
 老婆はそれには答えず、目の前に置かれている水晶玉を持ち上げ、私に手渡した。
「目を閉じなされ」
 その瞬間、私の目の前で光が弾けた。すぐに閃光は収まり、恐々目を開けると、私の姿をした老婆が出て行くところだった。
「だからあげたんじゃ」そう聞こえた気がした。

作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : ファンタジー | コメント : 占い師は老婆が相場
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はじめまして、からあげさん

 由美の目を覆っていた包帯が静かに解かれていった。事故で光を失った由美とは、この病院で知り合ったので、彼女は僕の顔を知らない。角膜移植手術が成功して、今日初めて包帯が取れるのだ。なんだか僕のほうが緊張している。

 視界を遮っていたもの全てが取り除かれると、彼女は何度かゆっくりと瞬きをした。
「まだぼやけてると思うけど、徐々にはっきりしてくるから」見守る先生の声だ。

「由美」
 どんな表情をしたらいいのか判らなったが、できるだけ優しく彼女に呼びかけた。
「あなたが宏さん?」
 僕は頷いて、後ろ手に隠していた小さなバラの花束を差し出した。
「ありがとう。赤なのね、バラ」
「ああ。僕の顔、見える?」
 彼女は頷いた。
「どうだい? 第一印象は」
「今までは、からあげみたいな人だったけど、顔は仔犬みたい」
「からあげって、どういう意味だい?」
「きびきび動いてカラッとした人」
「鶏から犬に昇格だ」
 僕たちは笑った。そして、涙がこぼれた。

作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : 恋愛 | コメント : 由美とからあげさん
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