蘇る夏の日
「父さん、手伝ってよぉ」
息子の勝太が何かカラカラ音を立てながら後ろから纏わり付いて来た。寝転んでテレビを観ていた私は生返事をしながら振り向くと、
勝太が手にしたプラモデルのスプレー缶に目を止めた。
その瞬間、記憶の引出しがスーパーのレジスターのような音と共に開くのを聞いた。
あれは確か小学四年の一学期の終了式の日で、今日みたいに油蝉がうるさく鳴いていた。私は、これでもう暫く奴等と顔を合わさずに
済むという開放感で、足取り軽く家へと帰っていた。
空き地の横を通り過ぎようとしたその時、声が礫のように飛んできた。
「おい、慶太、ちょっと来いよ」また奴等だ。
見ると、空き地に陣取ったそいつ等の足元で、押さえ付けられた小動物が身を捩っていた。金色の猫だ。
一人の奴がスプレーをカラカラ振っている。
私は全力で駆け出した。
――あの時、何から逃げ出したのだろうか。
「父さん、父さん、電話が鳴ってるよ」
私は現実に引き戻された。
作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : シリアス | コメント : 記憶の引出しを開けるキー
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いつもの処で
「うん、わかった。じゃあいつもの所で。七時ね。」
私は携帯電話を閉じると、混み合ったコンコースを足早に抜けて、駅の裏手の繁華街のほうへ向かった。
付き合って三年目になる真治とのデートはいつも同じ。今日もまた同じパターンだろうなぁと思うと、派手なネオンの色彩の中
で私だけが色褪せてる気がしてくる。真治は仕事帰りだろうから、作業着のままだろうし。
塗装工の仕事でいつもスプレーガンを握ってるから裾の広がったズボンは飛び散った塗料だらけ。
そんな男と居酒屋でご飯食べて……その居酒屋だっていつものお店、しかもいつも同じ席。そう、まねき猫の横の席。違うのは、
そうね、本日のおすすめメニューくらいかしら。
ご飯が済んだらどっちかの家へ行って、お互いを暖め合って……
考えながら歩いていたら、いつの間にかお店の前まで来ていた。
七時十五分前。
引き戸を開け店内に入ると、真治が白いまねき猫の横に座っていた。
初めて見るスーツ姿で。
作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : 恋愛 | コメント : いつもの処でいつものように
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鉄馬の男
男はサングラスをずらすと、涙を横にした形のガソリンタンクの表面を覗き込んだ。光り具合に満足しないのか、髭に覆われた
口元が少しゆがんだように見えた。
傍らの鉄馬はハーリィ・デビットスン。千二百ccのVツインエンジンを心臓に持つ暴れ馬だ。
男は手にしたワックススプレーを、その黒光りのするタンクに一吹きすると、丹念にウエスでぬぐった。
磨かれたタンクには南部特有の青空がきれいに映り込んでいる。
男は満足した様子で、鉄馬に寄りかかるとマーボロを取り出し、ジッポーで火を点けた。
吐き出される紫煙が青空にたなびく飛行機雲のようだ。
ふいに携帯電話が鳴った。
男は腰のホルスターバッグからモトローラを取り出し、低音で電話に出た。
「ハロゥ」
「何がハロウよ、はよ帰ってこんかい! 紙おむつ忘れるんじゃないよ!」
「はい。ただいま」
男は慌てて猫とサンダーキャッツのロゴが刺繍されたジャケットを羽織ると通町のコイン洗車場を後にした。
作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : 現代 | コメント : バイカーのひととき
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セット
『家ではまだ黒電話を使こうてまして』
『珍しいですね』
『この間もばあちゃんが飼い猫のクロのしっぽを受話器と間違えて話しとったがな』
『なわけないやろ!』
チッ。
俺はくだらない芸人のネタに舌打ちし、テレビを消した。静寂が訪れると、かすかにシューッという音が聞こえた気がしたが、
すぐにわからなくなった。
濡れたままの髪が気になったが、喉の渇きのほうが六対四で勝っていたので、立ち上がり、台所へ向かった。
冷蔵庫の中を物色する。
大好物のトマトジュースを見つけ、タオルを少しずらすと一気に飲んだ。
缶はよく洗い、シンクへ置いた。
次は、そうだドライヤーだった。俺は洗面所からドライヤーとヘアスプレーを持ってくると、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
ドライヤーの電源を差し、テーブルの上へ、ヘアスプレーも使い、セットした。
終わると、床に転がっている、この部屋の住人だった奴の体を踏みつけない様に気をつけながら玄関から外へ出た。
作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : その他 | コメント : ある男の非日常
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ビフォーアフター
猫の額ほどの狭い部屋でわたしたち姉妹は暮らしてる。やっと高一最後の試験がおわり、寝坊を決め込むつもりだったのに、朝から
美樹に踏んづけられて起こされた。それにこの騒ぎ。もう、やってらんない。
「やだぁ、決まんないよぉ。どうしよ、どうしよ!」
今日はあこがれの高志くんと初デートらしい。
だれに似たのか、家族で美樹だけがクセっ毛だ。もう一時間以上も鏡の前で悪戦苦闘している。
「どうせそんなとこ見てないって」
意地悪を言ってみたくなる。
「だってこの前ほめてくれたんだもん」
「そんなの男の常套句に決ってるじゃない」
鏡を覗くと、美樹がCM犬のクウちゃん顔になってる。だめだ。弱いのよね、わたし。
「そうだ、スプレーがある!」
おかあさんと買い物行った時、すすめられて買ったんだった。
髪が決まったとたんに、とびっきりの笑顔だ。やっぱり美樹はそうでなきゃ。
「あっ時間!」
美樹は机の上のケイタイをつかむと部屋をとびだしていった。
作者(敬称略) : 愛沢いさむ | ジャンル : その他 | コメント : 日曜日、朝の姉妹
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